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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第55章

第985回

 ヴァーク=ブーランジェはにっこりしてシャルロットを見た。「そうだな、もしオーケストラの連中がいいと言ってくれたら、それも面白そうだと思うんだが」
 シャルロットは困惑したように周りを見た。どうやら、オーケストラの全員は同意しているようだ。それで、かの女はマリアーンに言った。
「・・・あなたは、すぐにリハーサルを始めたいでしょう?」
 マリアーンはほほえみを浮かべた。「ぼくでよかったら、伴奏するよ」
 シャルロットは肩をすくめた。「・・・まあ、全員が共犯?」
「どうやら、そのようね」フランソワーズが言った。そして、そばにいたヴェルネに声をかけた。「大変申し訳ないんですが、あなたのチェロをお借りできますか?」
 ヴェルネは一瞬困ったような表情になったが、すぐにうなずいた。「ええ」
「・・・ありがとうございます、ムッシュー=ヴェルネ」シャルロットは丁寧に頭を下げた。それから、かの女は背中のリュックサックをおろし、中から楽譜を取りだした。「これ、初見で演奏できますか、ムッシュー=ブラッソン?」
 その楽譜を手にすると、マリアーンは驚いたようにかの女を見た。「・・・なぜ、チェロの楽譜が・・・?」
 シャルロットはほほえんだ。「そんなことより、大丈夫ですか? だめなら、ほかの曲にしますが?」
「大丈夫だよ。この曲は、よく知っている」マリアーンが答えた。「第一楽章を演奏するの?」
「いいえ、最終楽章を」シャルロットが答え、近くの椅子に座った。ヴェルネはかの女が座ったのを見届けてから、楽器を手渡した。かの女は小さな声で礼を言った。
 演奏が始まったとたん、フランソワーズの表情が変わった。それは、ベートーヴェンのイ長調のチェロソナタだった。その曲こそ、かの女がシャロン(ルイ=フィリップ=ド=ルージュヴィル)のために初めて伴奏した曲だった。その優しい調べは、かの女に昔のことを思い出させた。アダージョで始まるその優しい調べは、やがて生き生きとした音楽へと変わっていく。
 音楽が終わったとき、シャロンは眉にかかったブロンドの髪を人差し指でゆっくりかき上げた。その青い目は、驚きで輝いていた。『ああ・・・そうなんだ・・・わかった・・・そういうことなんだ』彼は興奮して何度もうなずきながらつぶやいた。そして、本当にうれしそうにかの女を見つめた。『わたしは、初めてわかったよ、マドモワゼル。あなたのおかげだ』
 フランソワーズは黙ったまま彼を見つめていた。しかし、彼の表情は、すぐに困惑へと変わった。その理由は、そのときには、かの女にはわからなかった。
 のちに、彼はかの女にこう言った。
『あのとき、わたしにはわかったんだ。ベートーヴェンの気持ちが。そして、わたし自身の気持ちが。わたしは、初めて見たときからあなたが好きだった。でも、あなたを愛していると、あのとき、わたしは確信した』
 フランソワーズは目を閉じた。まさか、今になって、そんなことを思い出すなんて・・・。この曲は、もう、何度も聞いている。息子も孫も、かの女の前でこれを演奏したことが何度もある。彼らだって、彼の一部だ。それなのに、彼らが演奏しているのを聞いても、懐かしいとは思っても、これほどはっきり彼のことを思い出したことはなかった。
 かの女は、あのときの自分の感情まではっきり思い出した。かの女自身も、あのとき、人生で最高の感動を味わった。これが愛というものなのだ、とあのときかの女は思った。かの女にとって、あれが初恋だった。今に至るまで、音楽を演奏していて、あれほど充実感を感じたことはなかった。やはり、彼は最高のパートナーだった。
 今ならわかる。彼が、かの女以外の誰とも演奏しないまま逝ったその理由が。彼もかの女と同じ気持ちだったのだ・・・。
 フランソワーズは目を開けたくなかった。動揺していることを誰にも知られたくない。
 シャルロットは、演奏しながらマリアーンの方を見ていた。彼は、何度かこの曲を演奏したことがあるに違いない。そうでなかったら、これほどチェリストの気持ちはわからないだろう。誰かに伴奏してもらって、こんなに心地よいのは久しぶりのことだ。以前こんな風に伴奏してくれたのは、いったい誰だっただろう?
 かの女は少し考え、思い出した。
 フリーデリック=ラージヴィルだ。
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