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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第55章

第986回

 シャルロットは、あの悲しいできごと以来、意識して<クラコヴィアク>を思い出さないようにしていた。しかし、シルヴィー=ペリゴールに会って、あのアルバイトの依頼を受けたときから、かの女はチェロの練習を再開していた。サヴェルネにアルバイトの許可をもらったとはいえ、たとえ彼の友人のヴェルネにであったとしても、誰かにチェロのレッスンを受けるわけにはいかないので、かの女は<クラコヴィアク>時代のレパートリーをさらっていた。このチェロソナタもそのうちの一曲だった。
 クラコヴィアク時代、レッスンの時には、仲間の誰かが必ず伴奏をしてくれた。シャルロットは、フリーデリックが伴奏してくれたときにだけは、ほかの誰と演奏したときにも感じたことがない何かを感じた。それが何かは、当時のかの女にはよくわからなかったし、分析しようと思ったこともない。しいていえば、信頼感だろうと思っていた。
 かの女は、クラコヴィアクの誰かと二人きりの時には、その相手に応じた話をした。フェリックスは兄同様の存在で、日常のことすべてを話した。スタニスワフとは冗談を言い合う間柄だった。フリーデリックは相談相手だった。といっても、フリーデリックの方が相談を持ちかけてくることはない。クラコヴィアクが解散したとき、かの女はまだ1桁の年齢だった。10歳にもならない相手に相談を持ちかけるティーンエイジャーがいるだろうか?
 ベートーヴェンのチェロソナタは、<クラコヴィアク>全員のレパートリーだった。実際に演奏会の曲目になったことは一度もなかったが、メンバーの全員がピアノパートもチェロパートも演奏できた。中でも一番得意としていたのはフリーデリックで、シャルロットは伴奏にまわることが多かった。かの女は、フリーデリックの伴奏をしながら、音楽を聞き、演奏しているところを見つめていた。彼は、終楽章の出だしのアダージョを演奏するとき、なんともいえないうっとりとした表情を浮かべる。まるで、恋人に優しく話しかけるときのようだ。当時のシャルロットには、その表現が真似できなかった。教授たちは申し合わせたようにこう言うのだった。
『恋をしなさい、シャルロット。本物の恋を』彼らは口をそろえてそう言った。『いつか、本物の恋をしたとき、音楽の本当の意味がきみにもわかるだろう・・・』
 シャルロットは、教授たちが自分を子ども扱いしているのだと思っていた。ある日、シャルロットはフリーデリックにこう不満を漏らした。
『どうして、大人たちは恋をすると、曲を作りたくなるのかしら?』
 そのとき、フリーデリックは笑って聞いていたが、急に真面目な顔をしてこう訊ねたのである。
『・・・きみは、誰かに恋をしたことがあるの?』
 シャルロットは考え込んだ。『・・・わからないわ。好きな人はたくさんいるわ。でも、それと恋は違うのかしら?』
 フリーデリックはほほえんだ。そして、こう答えた。『恋をすることは、たくさんの人を好きになることじゃないよ。特定の誰かを好きになることだ。ただ一人だけ、特別の人を好きになることだよ。その人のそばにいるときだけは、ほかの人に感じたことがないような別の感情を持つんだ。まず、一緒にいるのがつらくなる』
 シャルロットは目を丸くした。『一緒にいるのがつらいの? じゃ、一緒にいなければいいんじゃないの?』
『一緒にいないと、もっとつらい』フリーデリックはそう言って、もう一度ほほえんだ。
 シャルロットはもう一度考え込んだ。『・・・わかったわ。作曲家は、曲を作らないと、苦しいのね?』
 フリーデリックはふきだした。『曲を作らずにはいられない、と言い換えて欲しいね』
 笑いをおさめると、フリーデリックが言った。『・・・だけど、その特定の相手も自分のことを好きになってくれたとき、この世で一番の苦しみは、この世で一番すばらしい喜びに変わる・・・のだそうだ。だから、人は誰かに恋をするんだって』
 シャルロットは彼を見ているうちに、いつの間にかほほえんでいた。『・・・そう。大人って、ずるいのね。自分たちだけ、そんなにいい思いをするなんて』
『だから、恋をしなさいっていうんだよ、教授たちは』フリーデリックはまだ笑いたそうな顔でかの女を見ていた。
 シャルロットは彼をじっと見た。そして、こう結論づけた。『・・・わかったわ、あなた、わたしをからかっているのね?』
 フリーデリックは笑い出した。その話題はそれで終わりだった。
 シャルロットは、あのとき、話をもっと進めればよかったと思っていた。フリーデリックに、恋をしたことがあるかどうかを訊ねてみればよかった、と。しかし、今のかの女にはわかる。彼は恋をしていたのだ。相手は誰なのかはわからない。でも、絶対に恋をしていたはずだ。でなかったら、あのとき、彼は自分の恋愛感を話すことはなかっただろう。
 一緒にいるのがつらいが、一緒にいないのはもっとつらい。
 それは、実際に恋をしたことがない人間のせりふではない。
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