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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第55章

第993回

 シャルロットはほほえみながら否定した。「わたしは、天使じゃないわ」
 マリアーンは肩をすくめた。
 そして、彼は唐突に話題を変えた。「・・・ぼくは、本当はうれしかった」
「何が?」シャルロットが訊ねた。
「きのう、あなたは、ぼくにこう言いましたよね、『あなたは、ブラームスを演奏したからこそ、優勝できたんじゃないですか』と?」
「ええ。でも、それに対して、あなたは、怒ったわ」シャルロットが言った。
「あの文脈ではね」彼が言った。「・・・でも、あなたは、ぼくを認めてくれていたんだって気がついたんだ。ぼくが、あの中では一番のブラームス弾きだったということを」
 シャルロットは黙った。かの女自身は、そこまで考えて言った言葉ではなかった。しかし、あえてそう言ってもあまり意味はなさそうだ。
「ぼくが育った環境は、必ずしも音楽的なものだったとは言えない」マリアーンが言った。「孤児院には、古いピアノが一台あった。古かったが、いつもきちんと調律されていた。院長先生は音楽好きで、ときどき何か演奏していた。ぼくは、そこでピアノを習ったことはない。耳で覚えた曲を見よう見まねで弾いていたに過ぎない。院長先生は、ぼくがピアノを弾くのを止めようとはしなかった。ぼくは、そのうちに、院長先生が弾かなかった曲も耳で覚えて弾くようになった。近所に音楽の先生がいて、ぼくは、しょっちゅう孤児院を抜け出しては、その家の前で過ごしていた。その先生は、ぼくにピアノを教えることができなかった。ぼくには、お金がなかったから。そのかわり、生徒がいない時間に、ぼくにいろいろな曲を弾いてくれた。ブラームスをぼくに教えたのは、彼だった」
「彼の名前を知っている?」シャルロットが訊ねた。
「近所の人はムッシュー=デュランと呼んでいた。本職はヴァイオリニストだったらしい。ぼくが知っているのはそれだけだ」彼は肩をすくめた。「ぼくは、一度もあの孤児院には戻っていない。もし、あそこに行く勇気が出たら、一度彼を訪ねてみたいと思っている。ぼくにブラームスを教えて下さってありがとう、とお礼を言いたい。でも、まだ、その勇気が出ない」
 シャルロットは黙ってうなずいた。なんと返事をしていいのかわからなかったからである。
「もし、ブラームスの作品を知らなかったら、ぼくは音楽をやっていたかどうかわからない。ぼくは、先生が弾いたように自分も弾いてみたかった。そして、もっともっとブラームスの曲を知りたかった。もっともっとブラームスが上手に弾けるようになりたかった・・・」マリアーンが言った。「だからこそ、ぼくは、あの孤児院を出た。見知らぬポーランド人と一緒に、言葉も通じない外国に行った。今では、どちらがぼくの故郷なのかよくわからないくらいにドイツ語を覚え、ブラームスと一緒に呼吸をしている。でも、まだまだブラームスを勉強したい」
「・・・あなたとは、育った環境が全く違うんだわ」シャルロットが言った。「わたしは、呼吸するように音楽を吸収して育った。手を伸ばせばいくらでも与えられるところに音楽があり、普通以上に手に入れることができた。でもあなたは、自分から求めなくてはならなかったのよね」
 そして、かの女はほほえんだ。「・・・それが、ルビー4個分の差なのよ」
 マリアーンはびっくりしたようにかの女を見た。
「あなたは、経験を積めばいいだけなのよ。そして、あと20年もたてば、あなたは世界一のブラームス弾きになっているはず。きっとそうなるわ。わたしにはわかる」シャルロットはうれしそうにそう言った。
「20年・・・1934年?」マリアーンは驚いた。
 シャルロットはにっこりした。「20年後に、また会いましょう。そして、一緒にコンサートをしましょう。でも、そのころには、あなたは偉くなりすぎて、わたしと一緒にコンサートをするのは難しくなっているかも」
「そうなるかどうかはわからない。でも、世界一のブラームス弾きになりたい」マリアーンはそう答えた。そして、彼は手をさしだした。「約束するよ、ぼくの天使さん。ぼくは、きっと世界一のブラームス弾きになる。そして、1934年に、一緒にコンサートをしよう」
 シャルロットはその手を握りしめた。「約束よ」
 しかし、この約束は、決して実現することはなかった。この二人に<20年後>はこなかったのであった。マリアーン=ブラッソンは、約束の前年である1933年に悲しい事故でこの世を去った。そして、そのできごとは、シャルロットの人生を変える一つの転機となる・・・。
 今の二人がそのようなことを知るよしはない。
 ただ、マリアーンは、この約束を忘れなかった。この約束は、彼にとっては、人生を変える約束だったのである。
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