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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第56章

第1005回

 昼食後、シャルロットは音楽室に行った。そこには、すでに先客がいた。ブリューノがベートーヴェンのソナタを演奏していたのである。
 曲が終わると、シャルロットは彼に声をかけた。「27番のソナタね? それにしても、この家の人は、ベートーヴェンが好きなの? それとも、単に、勉強の対象?」
 ブリューノが答えた。「たぶん、好きなんだと思う」
 そう言いながら、彼は別の曲を弾き始めた。今度は30番のソナタだった。「このテーマ、とてもきれいだと思わない? どこか高いところに引き上げられて行くみたいだよね。この世の音楽ではないみたいだ。ぼくが好きなベートーヴェンは、こういう曲だ。この曲もそうだし、31番もそうだよね?」
 シャルロットは彼の隣に立ち、右手だけ一緒に演奏した。
「・・・今、火事か何か起こって、すぐに逃げ出さなくちゃならなくなったとする」ブリューノが言った。「もし、何か一つだけ持って逃げることが許されたら、何を持って逃げる?」
「松葉杖かしら」シャルロットは即答し、笑った。
 ブリューノはびっくりしたような顔をした。
 シャルロットは、急に真面目な顔をした。「・・・もし、両足が自由になるのなら、ヴァイオリンケースよ」
 そのケースには、ヴァイオリン以外に、かの女が大切にしている様々なものが入っている。
「ケースだけでいいの?」ブリューノはからかった。
「もちろん、中身が詰まったケースよ」シャルロットは真面目に答えた。
 しかし、ブリューノは、ケースの中に楽器以外のものを想像できなかった。「楽譜はいらないの?」
「とりあえず、頭の中に入っているものだけで十分よ」
「でも、もし、記憶を失ってしまったら?」
 シャルロットの顔から、ほほえみが消えた。かの女は、一度---より正確に言えば二度---記憶を失ったことがある。かの女はそれを思い出し、暗い気分になった。
「もう、失いたくはないわね、二度と」シャルロットは、自分でも意外なくらいきつい口調で言った。
 しかし、ブリューノは穏やかな口調で言った。「ぼくは、楽譜を持って逃げるつもりだ。ベートーヴェンのソナタ全集---最後の6曲が入っている方のアルバムをね」
 シャルロットは感心したように言った。「まあ、本当にベートーヴェンが好きなのね」
 彼は首を横に振った。そして、目の前にあった楽譜を開いた。どのページにも、同じ筆跡の書き込みがある。
「・・・実は、これは、母の形見だ」ブリューノが言った。「母は、昔、父の生徒だったそうだ。この筆跡は、父のものだ」
 シャルロットは目を丸くした。
 彼は小さくため息をついた。「ぼくは、母のことをもっと知りたいんだよ」
「じゃ、お父さまに聞けば?」
 彼は首を力なく横に振った。「教えてもらえないんだ。父に限らず、当時のことを知っていた誰もが口を閉ざしている」
 シャルロットもため息をついた。「・・・わたしたちって、同じような境遇だったのね」
「同じような?」
「わたしは、本当は誰なのか知らないの」シャルロットが言った。「ドクトゥール=ド=ラ=ブリュショルリーは、わたしが16になったら本当のことを話す、って言ったわ。<本当のこと>って何なのかしら? 彼はわたしの父じゃないと言っているけど、わたしには、理解できないの。今は、本当のことを知りたいような気がするし、知りたくないような気がする。でも、あなたは自分のことを知りたいのよね?」
 ブリューノはうなずいた。「手がかりは、ふたつだけだ。一つは、この楽譜。もう一つは・・・あとでぼくの部屋においで。父がもう一つだけくれたものがある」
 シャルロットはうなずいた。
「・・・さて、練習を始めなければ」ブリューノは楽譜を譜面台に戻した。
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