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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第一部」
第6章

第99回

 その恋は、シャロンの一目惚れから始まった。
 1872年の秋、新学期が始まってまもなくのある日の夕方のことであった。
 シャロンは、チェロの練習をするために開いている練習室を探していた。ある部屋の前を通りかかったとき、彼は不思議な思いを感じた。曲はベートーヴェンのピアノソナタであった。
 それまで、彼はベートーヴェンという作曲家はあまり好きではなかった。彼の師も『きみには、ベートーヴェンは向いていないみたいだね』とよく言ったものである。彼にはあまりしっくりくる作曲家ではなかったのであった。
 ところが、その演奏はこれまで聴いたどの演奏とも違っていた。その演奏は、彼の師がよく言っていた『苦悩を乗り越えた先にある幸福』そのものだったのである。『きみみたいに、苦悩が何かよくわからないような若者には、ベートーヴェンは向かない』と彼の師はよく言ったが、この演奏には<苦悩>があったのである。そして<幸福>が。不幸を乗り越えた先にある幸福・・・。この演奏家は、いったいどんな不幸を乗り越えてきたのだろう?・・・シャロンは、鍵穴から練習室の中を覗いた。そして、びっくりした。中にいたのは、自分とさほど年が違わないくらいに見えた少女だったのである。
 曲が終わったとき、彼は迷わずドアを開けた。
 少女は、びっくりしたように顔を上げた。
『・・・突然ごめんなさい。わたしは、チェロ科のルイ=フィリップ=ド=ルージュヴィルと申します。・・・あの、伴奏ピアニストになってもらえないでしょうか?』彼は真っ赤になってそう言った。
 少女は、彼を見ているうちに赤くなった。そして、恥ずかしそうに下を向いた。
 シャロンは、この瞬間、恋に落ちたのだ・・・と後に回想している。
『わたし、伴奏の経験はないわ』少女はちいさな声で言った。『それでもよかったら・・・』
 シャロンはうなずいた。
『わたしの名前は、フランソワーズ=ド=ラヴェルダン。マダム=メランベルジェの生徒です』少女は自己紹介した。
 この恋は、シャロンの片思いでスタートしている。彼らはチェリストと伴奏ピアニストとしてのつきあいから先へ進めずにいたのである。それは、よく言えばシャロンが紳士的だったから、悪く言えば彼が優柔不断だったから・・・にほかならない。
 しかし、二人がコンビを組んだ影響は大きかった。誰の目からも彼がかの女を愛しているのは確実に見えた。彼の師は彼が一つの壁を越えたことを喜んだ。恋をすることは、人間を成長させる・・・というのが彼の師の持論だった。そして、彼はそれを証明したのである。
 その年の暮れ、シャロンはついにフランソワーズに自分の気持ちを告白した。
『・・・愛しています。わたしと、ずっと一緒にいてください・・・音楽だけではなく、一生のパートナーとしてそばにいてください・・・』
 フランソワーズは訊ねた。『・・・それって、プロポーズかしら?』
 シャロンは首を横に振った。『いいえ。プロポーズの言葉は、チェリストとして食べていけるまではとっておくつもりです。わたしのは・・・つまり、予約です・・・あなたを誰かに渡したくないから・・・。わたしがプロポーズするまで、誰のものにもならないで・・・お願いです』
 フランソワーズは真っ赤になった。『・・・わたしが、ほかの誰かに夢中になると思う、シャロン?』
 彼は、思わずかの女を抱きしめた。
 そのとき、二人は、自分たちの恋が永遠のものだと思っていた。
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