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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第60章

第1060回

 1915年2月。
 シャルロット=ド=サン=メランとバルバラ=ヴィエニャフスカは、アメリカ行きの船に乗っていた。
 二人の目的地は、フィラデルフィア。そこには、ジョイス=アンダースンという元オペラ歌手がいた。
 ジョイス=アンダースンは、アメリカのある田舎町の出身だったが、その町に住む大金持ちアンダースン家の当主に才能を認められ、奨学金をもらってパリに勉強に出かけた。かの女は、勉強が終わった後もその地で活躍し、主にオペラの舞台で活躍したが、今から約10年前、舞台で大けがをした後現役を引退した。故郷に戻ったかの女は、アンダースン家の息子と結婚し、二人でフィラデルフィアに移り住み、その地に家を建てた。
 その家は、普通の家とは少し違っていた。かの女のレッスン室は、普通の部屋ではなかった。オペラ歌手であるかの女のレッスン室は、文字通りステージだった。かの女は、家の中に、オペラができるくらい大きなステージを作ったのである。もちろん、ステージだけで、観客をそこに入れるという発想がないその部屋は、決して<ホール>ではなかった。かの女は、そのレッスン室で、一日に一人ずつレッスンをする。敬虔なクリスチャンだったかの女は、日曜日には休むことにしていたので、弟子の数は常に6人に限られていた。その意味で、かの女の弟子になるのは非常に大変なことであり、かの女の弟子であることは大変な名誉でもあった。
 かの女は、自分の弟子たちとは寝食を共にしてきた。つまり、かの女の家は、レッスンの場であり、同時に家庭でもあった。かの女と6人の弟子たちは、一つの家族だったのである。
 シャルロットとバルバラは、もちろん、その噂をよく知っていた。しかし、かの女たちは、アンダースン女史に宛てた紹介状さえ持たずに船に乗ったのである。かの女たちの目的は、音楽を勉強すること。もし、アンダースン女史の弟子になれなかったときには、フィラデルフィアかほかの地の音楽院を受験するつもりだった。そのため、かの女たちは、楽観的な観測の元に船に乗ったのである。
 むしろ、かの女たちの不安は別のところにあった。かの女たちは、真面目に、無事にアメリカにつくことだけを祈っていた。
 以前、かの女たちの同級生であったジョヴァンニ=ロッシは、バルバラに『海に出るな』と警告した。彼は、かつて戦争を予言し、その予言は実現していた。さすがの二人も、もはや彼を<偽予言者>といって馬鹿にする気分にはなれなかったのだった。そのため、バルバラは、一人でいるときには決して船室から出ようとはしなかった。シャルロットと一緒の時でさえ、必要最小限の用件でしか船室から出ることはなかった。
 一方、シャルロットの方は、船室で二人きりになることに飽き、一人で散歩するようになっていった。シャルロットは、旅の初日から、一人でデッキに出た。そこで、考え事をしたり、ほかの客の様子を観察したりしていた。もちろん、相手には悟られないように。
 その女性は、大きな犬を連れていたので、シャルロットは最初の日からかの女が気になっていた。
 かの女は、40歳くらいに見えた。ブロンドの髪を少し高めの位置で結い上げていたので、もしかするともう少し若いのかもしれないが、その髪に少し白髪が交じっていることに気がついてからは、推定年齢を少し上げて40歳くらいだと思ったのである。美しい女性だった。しかも、いつも一人きりで、いつもデッキの同じ場所にいた。なぜか寂しそうに海を見つめている姿を見て、最初は、その女性が未亡人だと思ったが、もしそうならばもう少し地味な色の服を着るだろうと思い直した。かの女は、パステルグリーンの服を好んで着た。そばで見たことはないが、きっとグリーンの目をしているのだろう。かの女がその場にたたずんでいると、大きな犬がそのそばで丸くなって眠ってしまうのだ。
 かの女があんなに悲しそうに見えなければ、どことなくほのぼのとした光景だった。だからこそ、シャルロットはその女性から目を離せなかった。シャルロットは、その女性がアメリカの女優だと思いこんだ。人から見られることに慣れている・・・かの女はそういう雰囲気を醸し出していたのである。
 シャルロットは、名前も知らないその女性に、<トビアス夫人>とあだ名を付けた。そして、バルバラがあきれるほど熱心にかの女の話を聞かせた。
 ただ、シャルロットは<トビアス夫人>が立ち去る姿を見たことは一度もなかった。かの女は、シャルロットがデッキに現われるときにはすでにその場にいて、シャルロットが去るまではそこを動かなかったのである。そして、犬もかの女の足元から一歩も動かなかった。
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