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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第一部」
第7章

第123回

 後に<アレックス>と呼ばれたフランソワーズの弦楽四重奏曲の初演を、シャロンはホールの一番後ろの席で聞いた。ステージの上を直視する勇気が彼にはなかった。
 あたたかい音楽だった。それは、ちょうど、彼が初めて聞いたかの女のピアノの演奏を思い出させた。二つの曲に共通点があるとすれば、「ホ長調」というその調性だけだったかもしれない。それは、あのときの練習室を思い出させるような優しさを持っていた。彼は、かの女の姿を初めて見たとき、かの女の後ろに広がっていた夕焼け空を思い出した。あのとき、演奏を聞いた彼は、かの女が何か不幸なことを乗り越えてきたことを感じた。今日のかの女の音楽も、あらゆる不幸を乗り越えた人だけがもつ優しさがあふれていた。
 シャロンは、楽屋に向かって歩いた。彼は、かつて音楽家だった。そこへ行く道を彼は知っていた。
 部屋には、まだ誰も戻ってきてはいなかった。彼は中に入った。
 ふいにドアが開いた。
 フランソワーズは、そこに立っていた男が誰かわかると、びっくりして立ちつくした。何も言葉が出てこないようだった。
 彼は一歩前に進み出た。「フラニー、ごめん・・・」とっさに出た言葉がそれだった。
 「あなたから、謝罪は聞きたくない。謝ってもらったら、自分がみじめになるだけだわ。わたしは、幸せだったのよ・・・」フランソワーズは彼の言葉を遮った。
 『幸せだった』という言葉を聞いて、彼は次の言葉を飲み込んだ。そうだ、かの女ならそう言うだろう。自分は何を言ってしまったのか・・・彼はそう思った。
 フランソワーズは、彼を見つめた。その表情には、懐かしささえ浮かんでいた。
 シャロンは、続いて部屋に入ってきた女の子を見て、思わずぎょっとした。
 フランソワーズは振り返った。そこには、ヴァイオリンを持って嬉しそうに顔を輝かせていたクラリス=ド=ヴェルモンが立っていた。フランソワーズは、もう一度シャロンの方を見つめた。その表情に今度は驚きが混じっていた。
「・・・驚いた、この子は、ステラと同じ目をしているんだね・・・」シャロンがクラリスを見つめてそう言った。
「まさか」フランソワーズは思わずそう言った。
 フランソワーズも、彼の妻の名前がステラだということは知っていた。シャロンの噂は、ときどき耳に入っていた。ステラという女性がザレスキー一族であることも聞いていた。とてもきれいな目をした女性だという話であった。
 クラリスは、シャロンの方を見て、小首をちょっとかしげた。それは、ステラと同じ癖であった。そこにステラ自身が立っているかのように、二人はよく似ていた。
 フランソワーズは、クラリスに初めて会ったときに感じた妙な懐かしさの理由に思い当たったのである。この女の子は、この人に似ていたのだ! だから、この女の子を見捨てることができなかったのだ・・・。自分では気がついていなかったが、自分は初恋の人を忘れてはいなかったのだ・・・フランソワーズはそう思った。
「クラリス、アレックスを呼んできてちょうだい」フランソワーズはクラリスに言った。
「はい、フランソワーズおばさま」クラリスが答えた。
 その声は、妙に息子のフィルの声を思わせた。シャロンは、思わずクラリスの後ろ姿を目で追った。
 フランソワーズはしばらく黙ったままシャロンを見ていた。
「・・・アレックスに会ってもいいの?」シャロンが訊ねた。
「息子に会ってみたくないの? もっとも、名乗るかどうかは、あなたにまかせるけど」フランソワーズはそう言った。
 シャロンは何も言えなかった。会ってみたいかどうか、自分でもよくわからなくなっていたのである。 
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