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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第一部」
第7章

第137回

「母は、亡くなる数年前から、あることを始めました。それは、ショパンの作品を、作品1から順番に演奏していく、というものでした」フィルが話し出した。「かの女は、だんだん弱っていく体で、その演奏会を続けました。そして、ついに作品64まで終了しました・・・」
 フランソワーズははっとした。音楽家であるかの女には、彼が何を言おうとしているのかわかりだしたのである。
「亡くなる前に、母は父に尋ねました。『あなたは、ショパンが生前出版した最後の作品を御存知?』・・・父は知らないと答えました。彼はほんとうに知らなかったのです。母はほほえんで『それならいいんだけど・・・』と答えました。それがどういう意味だったのか、彼は母の死後に知りました・・・」フィルが言った。
 それでもフランソワーズは黙っていた。
 アレクサンドルが口をはさんだ。「・・・ショパンの作品65は、チェロソナタでしたよね・・・?」
 フランソワーズはうなずいた。
「母は、生きている間に、一度だけでも父とアンサンブルがしたかったんです」フィルは言った。「でも、母が出した問題の答えが、父にはわからなかった。そして、父は、最後までチェロを手にしなかったんです」
 フランソワーズは思わず訊ねた。「まさか、その問題の答えがわかったあとも・・・?」
 フィルは黙ってうなずいた。
「・・・シャロン、あなたは、ばかよ!」フランソワーズは、シャロンの亡骸に向かって叫んだ。「そんなことをして、何になるって言うの!」
 そう叫ぶと、かの女はわっと泣き出した。
 そのとき、かの女にははっきりわかったのである。
 あのとき---彼がプロポーズの言葉を口にしようとしたとき、彼は本気だったのだ、と。
 彼は、亡くなった妻の遺言を果たすために自分と一緒になろうとしたのではなかったのだ、と。
 彼が一緒にアンサンブルをしようとしていた女性は、生涯に自分ただ一人しかいなかったのだ、と。
 そして、彼は、死ぬまで、自分を待ち続けていたのだ、と・・・。
 それなのに、自分は、彼の真意には気づかなかった。
 自分には、彼にそこまで愛される資格はなかったのに・・・。
 フランソワーズは、ベッドの前にひざまずき、冷たくなった彼の手を握りしめて泣き続けた。
 フィルは、フランソワーズがそんなふうに取り乱すのを見て驚いていた。
 その姿は、さっきの彼の<失礼な質問>の答えであった・・・。それに気づいた彼の目からも、一度止まったと思った涙があふれ出した。
 フィルは、父親の方をもう一度見た。
 彼は、生涯に二人の女性を愛した。
 一人は、彼の初恋の女性。太陽のように強い、この女性である。彼は、この女性を本気で愛していた。いつか、人生のパートナーにしようと思っていた。その恋が引き裂かれる結果になっても、彼はまだかの女を愛していた。彼は、自分の命と同じくらい大事なチェロをかの女に託した。
『このチェロは、わたしの心だ。わたしの心は、ずっときみと一緒だ・・・。わたしは、一生チェロを手にすることはないだろう』彼は、恋人にそう誓った。そして、彼はその誓いを守り抜いた。彼は最後まで、チェロを手に取ることはなかった。それは、彼の心はいつまでもこの女性の元にあった、ということではなかったのか・・・?
 もう一人の女性は、彼が無理に結婚させられた女性であった。その女性は、名前の通り、いわば星であった。かの女は、彼の元でまたたき続けた。かの女は、一生涯彼以外の男性を愛することはなかったが、彼がほかの女性を愛していたことは知っていた。かの女は、最後にこう言った。『わたしは、あなたたちのお兄さまから・・・お父さまを取り上げてしまった・・・でも・・・もう、返さなければならないときが来ました・・・お願い、シャロン。どうか、かの女と再婚してください。そして、アレクサンドルと・・・この子どもたちを頼みます・・・』・・・かの女は、彼と結婚したことで自分を苦しめ続けた。
 しかし、フィルは母親が幸福だったということを信じていた。かの女がそう言ったわけではない。かの女の、あのショパンの演奏が、それを教えてくれていたのである・・・。
 父親がどちらの女性を愛していたか・・・と考えるのは愚問かも知れない、とフィルはあらためて思った。彼は、どちらの女性も愛していた・・・そう考えるのが正しいのだ。フィルには、そうとしか思えなかったのである。
 そして、どちらの女性も、彼の愛にふさわしい女性たちであった・・・とフィルは思った。


 彼の葬儀には、アレクサンドルとクラリスがショパンのチェロソナタを演奏した。彼が愛した二人の女性のそれぞれの子どもたちのアンサンブルこそ、彼の葬式に一番ふさわしいものだと、残された家族は思ったのであった。
 アレクサンドルが使った楽器は、シャロンが愛した、あのチェロであった。
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