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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第一部」
第8章

第142回

 彼はあごひげをなでて、ピアノに向かった。座るなり、5度の連続で曲を始めた。彼の曲には、大胆で新しい何かがあった。神秘的な雰囲気と明るさが曲からにじみ出ていた。
「・・・東洋の音階ね・・・?」クラリスが言った。
「そうだ。第4音と第7音がない。だから、5度ずつずれても、減5度はできない」
 そう言うと、彼は突然弾くのをやめた。
「音楽は実験じゃないわ」クラリスが言った。
「そのとおり。ぼくがしているのは、実験じゃない。作曲だ」男が言った。彼はクラリスの方を向き直った。「まさか、あなたは、5度の連続は禁止だとか、属和音の次に主和音を置かなくちゃならない・・・なんて考えながら作曲しているの?」
 クラリスが首を横に振ると、彼は続けた。
「ぼくだって、減5度を避けながら作曲をしているというわけじゃない」彼はそう言うと、目を輝かせた。「驚いたなあ! あなたのようなひとに会ったのは初めてだ。女流作曲家とこんな話ができるなんてね。あなたは、ただのコンセルヴァトワールの生徒なんかじゃないでしょう? ぼくは、エクトール=ルイ=バロー。あなたは?」
「クラリス=ド=ヴェルモンです」
 クラリスは、その名前を聞いて驚いていた。エクトール=ルイ=バローといえば、今、パリで一番有名な若手作曲家である。彼はローマ留学から帰ってきたところで、この夏に初演した弦楽四重奏曲がいろいろな意味で評判になっていた。クラリスも、新聞で賛否両論を読んでいた。彼は、アンリ=ロランの弟子であったが、師とはまったく似ていない作品を書いていた。コンセルヴァトワールではかなりの問題児で、才能はあるのにそれを無駄にしている、というのがもっぱらの評価であった。そんな彼が唯一影響を受けたのが、師とは反対の立場に立つ人間の弟子エドゥワール=ロジェであった。ロジェにあったことで、彼は独自の道を切り開くことができたと言えた。今では、逆に、ロジェの方がバローの影響を受けていると言ってもいいかも知れなかった。
 バローの方も驚いていた。かの女の噂は、ロジェから聞いていた。
「驚いた・・・じゃ、あなたが、フランソワーズ=ド=ラヴェルダンの<秘蔵っ子>なんだ!」バローはかの女を見つめた。「ラヴェルダン女史は、あなたを、わざと<マルタン派>から引き離して育てている、という噂を聞いている」
「ムッシュー=ロジェがそんなふうに言っているんですか?」クラリスが訊ねた。
 彼はうなずいた。「違うの? それはそれでいい考えだと思うけど。おかげで、あなたは間違った道を通ってはいないだろう?」
 クラリスは肩をすくめた。「わたしは、別にルブランが間違っているとは思っていません。パリに戻ってきたのは、作曲の勉強を続けるためですから」
「作曲なんて、人から習うものじゃないと思うがね」
 クラリスは驚いて言った。「あなた、メランベルジェと同じことを言うのね」
「メランベルジェにもそう言われたのかい?」バローはにやりとした。「初めて彼と意見が一致したな。彼は正しいよ。自分の流儀ができたら、自分の舟で沖へ出て行かなくっちゃ」
「でも、今のままじゃ沈んでしまうわ」
「舟ってものは、そう簡単には沈まないものさ」
 クラリスはバローと握手した。「忠告ありがとうございます。でも、今のわたしには、羅針盤がありません」
 バローはほほえんだ。「・・・ポケットの中も、ちゃんと探した・・・?」
 クラリスは、彼に背を向け、ドアに向かって歩き出した。
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