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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第81章

第1481回

 翌日、シャルロットとヴィトールドは再びサヴェルネ家を訪れた。彼らは、サヴェルネ夫人に伴奏を頼むことは断念したが、会場の提供は諦めなかったのである。サヴェルネも、シャルロットと<友人>の再会の場に居合わせたかった。
 シャルロットとヴィトールドが支度を整えたあとになって、この場の主役が現われた。
 ドクター=ジェントルマンことエドモン=ルフェーブルは、サングラスをかけて白い杖をついていたブリューノ=マルローの反対側の手を取っていた。シャルロットは、もしかすると白衣を着ていないドクトゥール=マルローの姿を見るのは初めてかも知れない、と思った。彼は、研究所にいるときには必ず白衣を身につけていた。彼が私服を着る、という発想さえシャルロットにはなかったのである。黒いコートを脱いだ彼は、あたたかそうなセーターを身につけていた。白い毛糸で、幾筋かの編み目の模様がある凝ったデザインのセーターだった。彼が自分でそれを選んで着たとは思えないが、その模様が背中側についていないことがルフェーブル医師流の愛情の表現だとシャルロットは気づいた。つまり、目が見えない彼が一人で着替えをするためには、前後がわかりやすいデザインのセーターが好ましい。あの彼のことだから、人を頼りにするのはプライドが許さないのだろう。ルフェーブルにはそれがよくわかっているのだ。
「ようこそ、わたしのお友達」シャルロットは全員に向かってそう言った。
 その声を聞いたドクトゥール=マルローはびくりと体を震わせた。しかし、何も言わずにシャルロットの声がする方を向いた。
「今日は、わたしの演奏をゆっくり聞いていって下さい」シャルロットはそう続けた。
 ヴィトールドが前奏を弾き始めた。ヴァイオリンが演奏に加わったとき、ブリューノ=マルローははっとして何かを食い入るように見つめるかのように顔を天にあげた。彼は、その曲を知っていた。それは、かつて記憶を失っていたシャルロットが演奏していたあの曲だ。タイトルは思い出せないが、間違いなくあのときのあの曲だった・・・。
 ちょうど今くらいの季節だったろう。車椅子に乗ってぼんやりしていたちいさな少女は、小さなヴァイオリンでよくこの曲を演奏していたものだ。ポーランドのタデー=クルピンスキーから預かった大切な患者。天使のような笑顔。優しいささやきのような音色・・・。かの女の演奏を聞くと、どんなに大きなホールで演奏しているときでも、自分一人だけのために演奏してくれているように感じたものだ。あの少女が自分の方を見るとき、何度かあのほほえみがこわばったのを覚えている。そうだ、自分はかの女には意識して厳しい顔を向けたものだ。もし、そうしなかったら、あの笑顔を見ただけで、心の中まですべて溶かされてしまっていただろうから・・・。誰もがそうだったように、あの天使に骨抜きにされてしまっていただろうから・・・。自分だけは、かの女を厳しく律しなければならなかった。そうすることが、かの女のためだったから・・・。
 彼にはわかっていた。あのときのあの少女は、今もあのほほえみを浮かべて自分を見ている。
 自分のためだけに優しく語りかけてくれている・・・。
 自分も、かの女にほほえみたい。だが、どうして涙が止まらないんだ?
 そうだ、今はもう泣いていいんだ・・・。自分の役目は終わったからだ。もう、かの女を誰かに任せてしまっていいんだ。自分は、かの女の保護者ではなく一人の男性として、自分の感情の赴くまま生きてもいいんだ・・・。今は、ただ泣きたい。この優しさに包まれて、泣いていたい。母親の胸に抱かれた子どものように、このままこのあたたかさを感じていたい・・・。
 ルフェーブル医師は、友人が涙をこぼしているのを初めて見た。この人だけは何があっても泣かないと思っていた。たぶん、目が見えないとわかったときでさえ彼は自分のために涙をこぼさなかったに違いない。そんな彼が、肩をふるわせている。
 シャルロットは、<グレトリー>の演奏を終えると、ヴィエニャフスキーの第2番のコンチェルトを演奏し始めた。かの女は、しばらく前からブリューノ=マルローが声を殺して泣いているのに気づいていた。かの女は、彼に涙を流させたかった。自分の悲しみ、苦しみをすべて吐き出してしまったあとになれば、彼が少しは楽になるだろうと気づいていたからである。しかし、第二楽章が終わったあとは、マルローはもう泣かなかった。彼は見えない目をまっすぐにシャルロットに向け、昔の彼がそうしたように体をぴんと伸ばしきちんとした姿勢で座っていた。
 演奏が終わるなり、シャルロットはドクトゥール=マルローのそばにかけより、彼を抱きしめた。
「会いたかったわ、ドクトゥール=マルロー」シャルロットはそう言った。
 マルローは体を硬くして、不思議そうな表情を浮かべた。
「あなたに会えて、とってもうれしいわ」シャルロットはそう言いながら、彼のほおにキスした。「おかえりなさい、ドクトゥール=マルロー」
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