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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第89章

第1621回

 その言葉を聞くと、看護師は小さな笑い声を上げた。
「あなたって、欲がない方なんですね」
「義母にもそう言われます。でも、そうじゃないと思います」マリーはまじめな顔で言った。「そもそも、幸せになりたいと願うのは、大それた望みだと思います。幸せになることは、とても難しいことです。だけど、幸せでいることはたやすいんです。ですが、それに気づく人は少ないんじゃないかしら?」
 看護師は小さくため息をついた。
「・・・そうかもしれませんね。でも、あなたは一つだけ間違っているとわたしは思います」看護師は穏やかな口調で言った。「あなたの人生については、あなたの人生なのだから、あなたがどう思おうと、どう生きようとあなたの問題です。ですが、ジェルマン君はあなたとは別の人間です。わたしは、ジェルマン君をちらっとしか見たことがありません。でも、彼はスタニスラスさまと同じように---もしかすると、スタニスラスさま以上に---賢そうな坊ちゃんです。彼が持って生まれた器は、あなたが思っている以上に大きいものかもしれません。彼は、おばあさまの気質を受け継いでいるんでしょうね。もしそうなら、彼はものすごい可能性があるお子さんですよ。奥さまが彼に立派な教育を授けてくださるおつもりなら、あなたはそれを妨げるべきではありません。彼には彼の人生があるし、あなたの言葉じゃないですが、器に入らない分はこぼれ落ちてしまうものです。ですから、試しに、器に入れられるだけ入れてみてはいかがでしょうか?」
 マリーは驚いて看護師を見た。
「わたしには、両親がいません。親戚もおりません。母はわたしが生まれたときに亡くなり、父も7歳の時に病死しました」看護師が言った。「父が亡くなったとき、わたしの事情を知っていたドクトゥール=ロッシェルはおっしゃいました。『本来ならば、孤児院に行くように勧めなければならないと思うが、もしよかったらわたしのところに来ないか? あなたは賢い子どもだし、お父様の看護をしている様子を見ると、あなたには何か可能性を感じるんだ。女医になるのは難しいかもしれないが、看護師になってはどうかな? もしそうしたければ、わたしのところに来なさい』」
 そう言うと、かの女は茶目っ気たっぷりにウィンクした。「・・・その言葉に従って、ドクトゥールについて行ったわたしは、家に入るなり、大きな器を目にしたんですよ。わたしを愛人の間にできた子だと思い込んだロッシェル=デルカッセ夫人が、怒りにまかせて夫に向かって大きなサラダボウルを投げつけたんです、中身ごとね」
 マリーはぷっと吹き出した。
「誤解が解けたあと、夫人はわたしを本当の娘のようにかわいがってくれたの。彼らの息子のリオネルも、わたしを妹として扱ってくれたわ。ドクトゥール=ロッシェルはよくこう言っていたわ。『わたしは、きみのお父様とは小学校時代の同級生だった。彼は、クラスで一番勉強ができた。だけど、不幸な事情が重なって、職業訓練学校へ進学するしかなくなったんだ。きみは昔の彼と同じ立場に立ってしまった。わたしは彼を知っているからこそ、彼の娘には同じ道を歩ませたくはなかったんだ』---小さかった頃は、ドクトゥールはよく彼の話をしてくれた。だけど、いつの間にか、彼はわたしに両親の話はしなくなってしまった・・・」クリスティアーヌはため息をついた。「その頃から、わたしの話し相手は夫人へと変わったの。わたしは、かの女がわたしを本当に愛していることを知っていた。だからこそ、わたしは看護学校へと進んだの。だけど、いつか、自分の力だけで医学部へ入ろうと思っているの。看護師をしてお金を貯めたあと、自力で進学するつもり。まだ駆け出しの看護師なのに、大きな夢でしょう?」
 マリーはうなずいた。「そうね」
「わたしは、自分の器の大きさを知らないわ。もしかすると、このあたりが限界なのかもしれない。だけど、夢を持つことは悪くないと思うの。それが、生きていく上で原動力になるのなら・・・」そう言うと、看護師はマリーの手から赤ん坊を受け取った。「さあ、マダム=ベニエ、あなたもお仕事に戻らないと」
「・・・そうね」マリーは、再び不機嫌そうになった赤ん坊を見ながらうなずいた。「・・・そうだわ、赤ん坊を抱きながら少し歩いてみて。そうすると、子どもの機嫌が直るわよ」
「ありがとう」そう言って、看護師は赤ん坊を抱きながらゆっくりと部屋の中を歩き回った。かの女が廊下へ続くドアを開けたとき、マリーも続き部屋へと入っていった。
 一瞬の後、マリーは短い叫び声を上げた。しかし、その声は廊下にいる看護師の耳には届かなかった。
 部屋の中は、すでに火の海だった。
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