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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第91章

第1660回

 部屋の中に入ったシャルロットは、思いもかけない情景に出くわした。黒いグランドピアノの前にある長いいすに3人の子どもが座っていた。双子の真ん中にいる女の子には見覚えがない。3人とも同じくらいの年頃に見えるが、この女の子は誰?
 その情景を、少し離れたいすに座ったヤロスワフがうれしそうに眺めていた。彼の膝の上にはフェリシアンが我が物顔で座っていた。人見知りの激しいフェリシアンがこんなに簡単に誰かに懐くのは珍しい。
「ちょうどいいところにきた」ヤロスワフが言った。「クリーシャ、ピアノを弾いてくれないか? まさか、ピアノが弾けないことはないよね?」
「弾けない、といったら・・・?」
 ヤロスワフはにっこりした。「きみはスイスの平民の出身だと言ったが、かりにそれが事実だとしても、きみは幼い頃にピアノを習うような環境で育ったに違いない。どうだ、わたしたちに聞かせてくれないか?」
 シャルロットは返事をしなかった。だが、ヤロスワフの言葉を聞くと、女の子の手が止まった。かの女は期待するようにシャルロットを見つめた。それに気づくと、二人の男の子たちも手を止め、率先していすから降りた。両脇の二人がいなくなったので、女の子もいすから降りた。そして、女の子は優しい口調で言った。
「どうぞ、奥さま」
「ありがとう」シャルロットはピアノに近づきながらそう言った。かの女が見ていると、かの女の二人の息子たちは、そのまま小さな女の子をエスコートするように近くのソファに案内していた。特に教えたわけでもないのだが、ヴィトールドの仕草を見ているうちに、二人は女性には優しくするものだと覚え込んだようだ。彼らは、女の子を、まるで女王のように扱っている。そんな二人を、女の子は満足したように見つめている。たしかに、先が思いやられそうだ・・・。
 シャルロットは、目を閉じて一瞬考えたあと、ショパンの変ニ長調のノクターンを弾き始めた。
 演奏を終え、ピアノの鍵盤から指を離したとき、女の子はシャルロットに駆け寄り、ちょこんと膝の上に座った。そして、くるっとふりむいてシャルロットの方を見上げた。優しい目をした、ライモンドを女の子にしたような子ども。年齢は、双子と同じくらいだろう。女の子の方が大人に見えるから、もしかするともう少し下かもしれない。いずれにしても、年齢は3~4歳くらいだろう。目の色はライモンドと同じ色彩のブルーだ。ザレスキー家のシャルロットや息子たちよりも少し淡いブルーだ。この子はコヴァルスキー一族に違いない。だが、誰の子どもだろう?
 そんなことを考えていたシャルロットに、女の子は黙ったまま次の曲を所望するように小首をかしげて見せた。
 シャルロットは、次の曲を演奏しようとし始めた。左手を最初に鍵盤に乗せたのを見たとき、子どもははっとしてシャルロットを見た。シャルロットは堅く目を閉じ、眉を寄せて大きく腕を動かした。その緊張が伝わると、女の子はシャルロットの膝の上で身動きした。シャルロットは、女の子が何を考えたのかわかった。かの女は女の子を優しく抱き上げ、いすの隣に移動させると、もう一度一連の動作を始めようとした。女の子は、シャルロットのその表情を見ているうちに涙ぐんでいた。しかし、かの女はシャルロットの演奏を邪魔しないようにおとなしく座っているだけの忍耐力は持っていた。
 ヤロスワフとライモンドは、シャルロットが演奏を始めた曲を、もちろんよく知っていた。ショパンの変ロ短調のソナタ。第三楽章に《葬送行進曲》が入っているため、通称《葬送》と呼ばれるソナタだ。ライモンドは、約1年間シャルロットと暮らしたが、その間にかの女がピアノを演奏するのを聞いたことがなかった。かつて<クラコヴィアクのブローニャ>と呼ばれた演奏家だった、ということは知っていても、大人になった今のかの女とピアノを結びつけて考えたことは一度もなかった。これほどの演奏家が、ずっとピアノから離れていたというのは驚きだ。この演奏を聴くと、シャルロットがいかにヴィトールドを愛していたかが伝わってくる。彼を失って、どんなに悲しんでいるかが。いや、この一年で、かの女はたくさんの人を失った。この演奏は、そのすべての人たちのために捧げられているのだろう。
 ヤロスワフは曲の途中から目を閉じていた。もう誰が演奏しているかなんてどうでもよかった。この演奏は、彼が親しかった人たちの面影が浮かんでくるような演奏だ。みんないなくなってしまった。今の自分に残されているのは・・・。
 演奏が終わったあとも、誰も何も言わなかった。ときどき、すすり泣く音が聞こえるだけだ。
「・・・わたしも、こんな風に弾いてみたい」女の子が口を開いた。「おねがい、わたしにピアノを教えて」
 シャルロットはそう言いながら自分にすり寄ってくる女の子の頭をそっとなでた。ザレスキー家の人たちと同じようなまっすぐの硬い髪の毛をなでながら、かの女は自分の娘を思い出し、そっと目を閉じた。
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