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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第91章

第1664回

 ユリアンスキーは慌てて服の袖で目をこすった。
 その動作をみて、シャルロットの視線は、彼の服装へ移った。よくよく見ると、彼が身にまとっていたお仕着せはずいぶん古いものだった。おそらく、彼の父親が<チャルトルィスキー家執事>だったころに着ていたものだろう。シャルロットが子どもの頃から、チャルトルィスキー家の執事はこの服装だった。たぶん、服を新調する余裕もないのだ。今までずいぶん送金していたと思っていたが、彼らにとってそれは少なすぎる報酬だったのだ。ユリアンスキーは寡黙な人だったから、シャルロットが送金してくれる小切手の中から維持費と給料を払い続けたのだ。彼のことだから、足りない分は自分の給料を削ったに違いない。その維持費でさえ、ここ半年は途絶えていたはずだ。申し訳ないことをしたわ、とシャルロットは黙ったまま考えた。もっと早く、チャルトルィスキー家の窮状を考えてやるべきだったのに。
 そんなことを考えていたので、シャルロットはユリアンスキーが泣いていたのだ、と気づくのが遅れた。シャルロットが気づいたときには、ユリアンスキーは子どもに慰めの言葉をかけられ、普段の表情に戻ったあとだった。もし、目が赤くなっていることに気がつかなかったら、ユリアンスキーが泣いていたとは誰も気づかないだろう。
「・・・ごめんなさい、ユリアンスキーさん」シャルロットは小さな声で謝った。それでも、その声はかろうじて執事の耳に届いた。
 ユリアンスキーははっとして振り返った。シャルロットは立ち止まって下を向いたまま立っていた。その表情は、彼には見えなかった。彼に見えたのは、シャルロットの頭のてっぺんだけだった。二人の身長差は頭一つ分以上あった。
 マリア=テレージアは、人なつっこい笑みを浮かべてシャルロットに挨拶した。そして、「せんせい、こっち」と言いながらかの女の手を引いて<音楽室>に向かった。
 3階にあるその部屋は、ナターリア=チャルトルィスカ公爵夫人が生きているときから<音楽室>だった。シャルロットが中に入ると、部屋のたたずまいは全く変わっていなかった。部屋にはグランドピアノが二台あり、壁にはヴァイオリンが掛けられている。そのヴァイオリンの隣には、故セバスティアン=ロースト画伯の代表作<拒絶>が掛けられていた。チャルトルィスカ公爵夫人が、『亡き夫の表情にそっくり』と言っていた、あのキリストの絵だ。
 その絵の前に、真っ黒い髪をした男性が立っていた。マリア=テレージアを男性にしたような顔をしていたその男性がかの女の父親だとシャルロットは一目で見抜いた。その男性は、知的な顔に優しい笑顔を浮かべてシャルロットの方を見た。彼の陰になって見えなかった女性が声を掛けた。
「いらっしゃい、クリーシャ。待っていたのよ」ユーリアはそう言いながら夫の陰から出てきて、シャルロットに輝くような笑みを見せた。
 男性は、シャルロットの後ろに立っていたユリアンスキーに言った。
「レッスンの前に、大切な話がある。すまないが、この子を乳母に預けたあと、もう一度戻ってきてくれるか?」
 マリア=テレージアは、部屋から出されると知ると少しだけ抵抗するような表情を見せたが、母親ににらまれるとすごすごと部屋から出た。
「・・・では、あなたが、ライと結婚なさった方なんですね?」執事が出て行くと、男性が言った。「わたしは、ユーリの夫、ルドヴィーク=レーベンシュタインです」
 シャルロットはお辞儀をし、挨拶の言葉を口にしようとした。
 そのとき、彼は出し抜けに振り返り、こう言った。「このキリストの絵の男性は、あなたにどことなく似ているんですね」
 シャルロットが返事できずにいると、ノックの音がしてユリアンスキーが入ってきた。
「ブローニャさん」ルドヴィークが振り向きざまに声を掛けた。「ここが、あなたの音楽室ですよね?」
 その言葉を聞いたユーリアは、はっきりと驚きを顔に出した。どうやら、かの女は何も気づいていなかったようだ。
 シャルロットも沈黙を続けた。
 沈黙を破ったのは、執事だった。
「・・・ところで、わたくしにも、何かご用でしょうか?」ユリアンスキーが訊ねた。
「まあ、とにかくどこかに座ってくれ」ルドヴィークはそう言いながら、全員に空いているいすを勧めた。
 全員が座ると、ルドヴィークが言った。
「残念だが、この屋敷をあなたにお返しすることは当分出来そうにない」彼が続けた。「わたしもユーリも、ザレスキー家には行きたくないと意見が一致している。しばらく、ここをお借りし続けたいが、よろしいかな?」
 シャルロットはうなずいた。
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