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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第91章

第1667回

 ワルシャワでのコヴァルスキー家の生活は単調なものだった。けがをして以来、ライモンドは社交的な場に出ることがなくなったからだ。もし、彼が花嫁を連れてパーティーに出ようものなら、彼の外国人の花嫁は注目の的になるのは間違いないと思われた。だからこそ、彼はあえて人前に出ようとは思わなかったのである。
 ユーリアは、シャルロットが同じ階級の人間とつきあわないことを残念には思わなかったが---かの女自身がその階級の人間ではなくなっていたということもあるが---同じ嗜好の人間とつきあわないことを残念に思っていた。かの女は、ライモンドを説き伏せて音楽家たちが出入りするカフェに連れ出すことにした。ライモンドがつけた条件は、可能な限りシャルロット個人のことを人に話さないこと、だった。シャルロット=ザレスカが生きていて困る人間が、ポーランドに存在しないとは限らないからだ。そのため、しばらくの間はシャルロットとユーリアは遠い親戚、ということにしようということで話は決まった。
 二人は<カフェ=ディアマン>という小さなカフェで会うことになった。
 そのカフェは、1902年から同じ場所に建っている。ベルリンに留学したこともある元ヴァイオリニスト、という肩書きを持つある男性が始めたカフェで、その男性の親友でもあった作曲家ヤン=クルピンスキーがカフェの名付け親だった。ヤン=クルピンスキーは<クラコヴィアク>の名付け親でもあり、設立メンバーの一人でもあった。それから24年たち、<カフェ=ディアマン>と書かれた看板もずいぶん傷んできて、ほとんど読めないくらいになってしまった。看板が黒ずんできたからだけではないだろうが、誰が最初に言い出したのかわからないが、『こんなんじゃ、ダイヤモンド(ディアマン)でなくて黒鉛(グラフィート)だよな』と笑い話になったらしい。ダイヤモンドと黒鉛は、同じ元素記号を持っているが、全く外見が違う。最初に言った人間は、気の利いたジョークだと思ったのだろうが、噂が広まるうちに、カフェは次第に<黒鉛(グラフィート)>と呼ばれるようになっていた。実際、看板に誰かが鉛筆で<カフェ=グラフィート>と落書きをした。鉛筆書きだったので、目立たなかったが。
 シャルロットは中に入る前に、待ち合わせ場所が間違っていないかどうか再確認したとき、鉛筆書きの<カフェ=グラフィート>を見つけて、噂は本当だったと思った。一人で中に入りたくはなかったが、入り口で15分待ってもユーリアが現れなかったので、勇気を出してドアを開けた。
 そこは、ローザンヌの<ヴァンドルディ>を思わせるようなカフェだった。<ヴァンドルディ>と違うのは、たばこのにおいが一切しなかったことと、人々の話し声に混じってピアノの音色が聞こえていたことだ。もともと音楽家たちが出入りしていたという歴史を持つそのカフェでは、音楽が流れることは当たり前のことらしい。シャルロットは首を回して、ユーリアが中にいるかどうか探してみた。かの女はまだ来ていないようだ。シャルロットの視線は奥の方にあった黒いスタンドピアノに止まった。二人の男性がピアノの前で何か話していた。一人はいすに座って演奏し、もう一人はそのそばに立っていて、ときどき右手で何か違うメロディーを弾いていた。たぶん、曲のことで何か口論しているのだろう。二人とも若い男性だった。立っている方は、肩まで伸びているとび色の髪をしたすらっとした男性だった。座っている男性は、対照的にずんぐりとした体格のブロンドの男性だった。
 シャルロットがその二人組を見ていたとき、ブロンドの髪をした男性がシャルロットに気づいて手招きした。シャルロットは無意識のうちにピアノの方に歩いていた。
「マドモワゼル=ド=ローズブランシュ」男性はまるでビロードのような響きのテノールの声でシャルロットに話しかけた。それは、ほとんどなまりのないフランス語だった。「ピアノは得意ですか?」
 シャルロットは男性にほほえみかけた。「わたしはマドモワゼルではありませんが、ピアノは弾けます」
 彼はにっこりほほえんで言った。「それは、半分残念なことですね」
 そう言いながら、彼はいすから立ち上がった。そして、シャルロットに座るように身振りで示した。
「それでは、この曲を弾くことができるでしょうか?」彼は、譜面台にのっている手書きの楽譜を示しながら訊ねた。
「初見で演奏するのは、それほど得意ではありませんが・・・」そう言いながら、シャルロットは楽譜をじっと見つめた。その間に、男性は分厚いめがねを掛けた。楽譜をめくってくれるつもりらしい。
「・・・あら、目が悪いんですか?」シャルロットは小声でささやいた。「だから、あなたの目はとてもきれいなんですね」
 男性は真っ赤になった。そのとき、シャルロットはいきなり演奏を始めた。
 シャルロットが演奏を始めたとたん、場内は静まりかえった。しかし、演奏に集中していたシャルロットは、場内の変化には全く気がつかなかった。かの女は夢中になって演奏していた。
 演奏が終わったとき、場内の人たちが総立ちで拍手したので、シャルロットは自分が注目されていたことにはじめて気がついた。
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