年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第95章

第1739回

 その言葉を聞いたボレスワフスキーは、死刑執行直前の囚人を思わせるような表情で天井を見上げた。
『・・・できません、ヘル=フリーデマン。わたしには無理だ』ボレスワフスキーはつぶやいた。
 その彼の背中を押したのはユーリアだった。
『クリーシャは、ここに来ているわ』ユーリアはいつもの堂々とした態度で言った。『かの女は、誰よりもあなたの成功を祈っていたのよ。そのかの女が、あなたの晴れ舞台を見にこないはずはないでしょう?』
『・・・そう信じられればいいのだが・・・』ボレスワフスキーは涙ぐんだ。
 ユーリアは彼の肩をたたいた。
『あなたが信じなかったら、いったい誰が信じるの?』
 ボレスワフスキーは真っ青になってこわばった顔をユーリアに向けた。そして、静かに告げた。
『わたしは、かの女のためにステージに出る。・・・つらいときには、つらそうにしてはいけないんだ』
 フリーデマンは彼らの邪魔にならないようにそっと楽屋から出て行った。彼がいついなくなったのか、二人は全く気づかなかった・・・。
 ユーリアはその情景を思い出していた。そして、カロル=ブレジンスキーの言葉が正しかったのだと思った。
『彼(ボレスワフスキー)はかの女を愛している。だが、彼は決してかの女にそれを告げることはないだろう。かの女には自分が必要だと思って彼が一歩踏み出すためには、誰かが後ろから押してあげなくてはならないんだよ・・・』
 ユーリアはため息をついた。そうだ、ボレスワフスキーは、シャルロットに長い間あこがれ続けていた。弟のように思ってきた彼の恋を応援したい気持ちはある。だが、かの女はライモンドもまた同じようにシャルロットのことを思い続けていたことを知っている。ブレジンスキーは、ライモンドとシャルロットの間に男女関係はないと言った。あの二人を見ている限り、にわかに信じられることではない。以前、ライモンド自身がそれをほのめかしたことはある。ただ、それはシャルロットがワルシャワに来たばかりの頃のことで、その関係が3年も続いているとは考えられない。
 ユーリアはもう一度はじめから考えを整理しようと思った。事の発端は、ボレスワフスキーがクリモヴィッチ家にやってくるきっかけとなったあの出来事だ。ボレスワフスキーの両親は、ポトツキー伯爵家の使用人だった。たまたま伯爵の一人息子であるアダムよりも数日早く生まれたという偶然のため、ボレスワフスキーの母親はアダムの乳母になった。ボレスワフスカ夫人の仕事はアダムが3歳になったときに終了したのだが、3歳の息子に家庭教師をつけた伯爵は、子どもが新しい教師に拒否反応を示したのを見て、ずっと一緒に育ったボレスワフスキーに目をつけた。ボレスワフスキーが一緒なら、息子も新しい教師を受け入れてくれるに違いない・・・伯爵の思惑は成功し、アダムはボレスワフスキーと一緒に学び始めた。二人は何をするのも一緒だった。伯爵は引っ込み思案だった息子に音楽教師もつけた。アダムは驚くほどの才能を見せ、彼の教師は、当時子どもたちで作ろうと計画していたピアノトリオ<クラコヴィアク>のチェリストに彼を抜擢した。ところが、その計画がはっきりとした形を取ったときになって、アダムは突然急死した。前日に食べた何かにあたったらしく、あっけなくこの世を去ったアダムの死には事件性はないと警察は断定したのだが、伯爵の気持ちは収まらなかった。その夕食に関係した人間たち---料理人から、テーブルをセッティングした人たち、家族以外でテーブルに着いた人たちまですべて---は、それからまもなく全員が首にされた。その日、たまたま食器を片付けたボレスワフスカ夫人は、この日に失業した。そのとき、ボレスワフスキーの父親はすでに亡くなっており、ボレスワフスカ夫人は7歳になる息子と一緒に屋敷を追い出された。ボレスワフスカ夫人は小さな息子を抱え、ただ一人の親戚を訪ねてドイツに行った。その旅で無理がたたったのか、かの女はそれからまもなく病死した。ボレスワフスカ夫人の小さな息子は、旅行鞄一つだけを持ったまま孤児院に送られた。その鞄には、身の回り品のほかに、<クラコヴィアク>の最初のコンサートの記事が載った新聞が入っていたという。その記事は写真入りで、ボレスワフスキーは、その新聞がぼろぼろになるまで毎日のように眺めてため息をついていた・・・。
『つらいときにはね、つらいからこそ、ほほえんでいなくてはならないんですって。悲しいときには、悲しいからこそ、泣いてはいけないのよ。本当に悲しいときには、涙なんか出てこないものなのよ』
 ユーリアは彼の口から、天使がそう言ったと聞かされたことがある。その天使の思い出と一緒に、彼は生き続けてきたのだ。
 天使。まさしく、シャルロットは天使的な女性だ。
 そのとき、ノックの音がした。ユーリアは自らドアを開けに行った。
 そこにいたのは、夫のルドヴィークだった。彼はライモンドの車いすを押して駆けつけたのである。
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