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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第96章

第1758回

 シャルロットがモジェレフスキーの家に入るのを見た人は誰もいなかった。彼らは3階建てのアパートに住んでいた。そのアパートの入り口には<芸術家たちの家>という小さな看板が出ている。事実、彼ら以外の住民はすべて音楽家か画家たちだった。全部で10世帯が住むそのアパートは、大家も音楽家であったため、たえず何か楽器の音が鳴り響いていた。近隣の住民のため、朝9時から夜9時までの12時間以外は一切音を立ててはいけない決まりになっている。しかし、自称芸術家たちは生活時間が不規則なことが多く、午前中は静かなことが多かった。昼間目が覚めて、夜遅くまで起きている人が多いこともあり、モジェレフスキーたちはそっと音を立てないように階段を上った。
 音楽家たちが夜行性なので、モジェレフスキー夫妻は朝型の生活をしている。彼らは朝の4時に起き出し、5時には机の前に座る。彼らはほとんど昼までそれぞれの部屋で書き続ける。そして、音楽家たちが音を出し始める頃になっていったん昼寝をするのが日課だった。二人とも、音楽家たちが出す音にはすっかり慣れてしまっていた。同じ箇所を反復練習しているのを聞くと、眠りを誘われる・・・とさえ思っていたほどだ。ただ、近所の音楽家たちに面と向かってそう言ったことはなかったけれども。
 二人はシャルロットを自宅に連れてきたものの、かの女の病気のためには安静にすべきなのに、この環境ではどんなものだろうと心配になった。しかし、シャルロットはモジェレフスキー家の客間に通され、新しいシーツにくるまれたとたん安心しきったように眠ってしまった。モジェレフスキー夫妻は、『やっぱり、かの女は音楽家だったんだね』と顔を見合わせてほほえんだ。
「昼食の準備をするわね。ついでに、病人向けにスープを作るわ」マウゴジャータは口を開いた。「緊急事態だから、常識的に考えるのはやめましょう。わたしがスープを作るまで、あなたが病人のところにいて。冷たい水を入れた洗面器とタオルを準備するから、ちょっと待っていてね。部屋の戸は少し開けておくこと。いいわね?」
 アントーニはゆっくり頷いた。「洗面器とタオルは、わたしが用意して、直接持って行くよ」
「ええ、お願い」マウゴジャータが答えた。そして、かの女はいすに置かれていたエプロンを素早く身につけた。振り返ると、夫の姿はすでにそこにはなかった。浴室に洗面器とタオルを取りに行ったのだろう。一人暮らしが長かった彼は、一人で何でもできる。自分が病気をしたときには、温かいスープを作って一晩中冷たいタオルを取り替えてくれた・・・。
 役割を逆にした方がよかったかしら? 彼にスープを作ってもらって、自分が病人に付き添うとか?
 マウゴジャータは、夫が過去にシャルロットにあこがれていたことを知らない。もし知っていたら、夫をかの女に必要以上に近づけないように心を砕いただろう。夫を信じているが、それとこれとは別問題だ。
 洗面器とタオルを持って客間に行ったアントーニは、テーブルに洗面器を置くと開けっ放しにしていたドアのところに戻り、半分だけ戸を閉めた。半開きのドアは、彼のためらいを代弁していた。もう少し閉めてもいいのだが、妻に変に誤解されるのは本意ではない。彼はタオルをきつく絞ってからシャルロットに近づいた。冷たいタオルが額にあたり、シャルロットは一瞬だけ薄目を開けた。だが、完全に目が覚める前にかの女のまぶたは重そうに閉じた。まもなく、軽い寝息が聞こえてきた。熱がまた出てきたようだ。
 彼はテーブルまで戻った。マウゴジャータなら洗面器をサイドテーブルに置いて病人のそばにいすを持っていくだろうが、彼にはそうできなかった。タオルを額にのせるため、彼はかの女に近づいた。これほどまでにかの女のそばに寄ったことはこれまでにも一度もない。熱を出して意識がない状態なのに、かの女は不思議な雰囲気を醸し出していた。一瞬でも隙を見せたら、その魅力に負けてしまいそうな、そんな雰囲気。一度でもかの女を愛したことがある人間なら、その雰囲気に飲まれてしまっても無理はない。
 この自分だって・・・。
 彼は洗面器の近くにあったいすに座った。ぼんやりと考え事をしていたとき、マウゴジャータが湯気の上がったスープ皿を運んできた。シャルロットが目を覚ます頃、ちょうどいい温度になっているだろう。
「食事の支度ができたわ。先に食べてきてちょうだい。もう少ししたら、わたしも行くわ」マウゴジャータがアントーニに声をかけた。
「しばらくは目が覚めないだろうから、先に一緒に食事を済ませてしまおう」アントーニは立ち上がりながら言った。
 二人は部屋のドアを閉めて外に出た。そのとたん、アントーニはいきなり妻を抱きしめた。
「・・・ね、食事よりもいいことをしようよ?」アントーニは妻の耳元でささやきながら体を密着させた。
「あら、今はだめよ」マウゴジャータは彼から体を離そうとした。
「病人はぐっすり眠っている。近所でも練習を始めたみたいだ。今を逃したら、しばらくチャンスがないかもしれない。まさか、隣の部屋の客人が起きているときはできないだろう? だから、いいだろう、なっ?」そう言いながら、アントーニは妻をひょいと抱き上げ、寝室に向かった。
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