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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第96章

第1761回

 妻が外出すると、アントーニはシャルロットの部屋に行き、冷たくなったスープ皿を持ってきてスープを温め直した。彼は3往復してスープと薬、洗面器とタオル、本を持ってきた。それから、暖炉の火をかき回し、消えそうになっていた火をおこした。彼はシャルロットが眠っているのを確認すると暖炉のそばにより、持ってきた本を開いた。しかし、フランス語で書かれた文字は全然頭に入ってこなかった。彼は数分間同じページを眺めていたが、薪がカタンと音を立てたのではっと我に返った。彼は本をテーブルにおいて立ち上がり、眠っているシャルロットに近づいた。
 かの女にこんなに近づいたのは初めてだ。それにしても、なんときめの細かい肌をしているのだろう。熱のために赤みを帯びた顔をしていても、こんなに苦しそうな表情でも、この女性はどうしてこんなに美しいのだろう?
 彼はぬるいタオルを額から取った。そっと額に触れてみて、まだ熱があるのを確かめると、かの女の体を優しく揺さぶってみた。しかし、かの女は目を覚まさなかった。彼は振り返り、タオルを持って洗面器のところに戻った。彼が手にしたのはタオルではなく、スープ皿と薬の入ったコップがのせられた小さな盆だった。彼はシャルロットのところに戻り、もう一度起こそうとした。かの女は小さくうめき声を上げたが、目を覚まさなかった。
 彼は少し考えたあと、ベッドのそばのサイドテーブルに盆を置き、かの女を上半身起こしてみた。スープの入ったスプーンを唇につけてみたが、かの女は口を開けようとはしなかった。彼はスプーンで唇をこじ開けようとしてみたが、どうやら無駄らしいと悟った。
《でも、薬を飲ませないと・・・》彼は心の中でそう言った。そして、彼はスプーンをサイドテーブルに置くと、代わりにコップを手に取った。彼は迷わず薬を口に含み、かの女に口移しで薬を与えようとした。軽く鼻をつまむと、かの女は苦しそうに口を開けた。彼はすかさず開いた口に薬を流し込んだのである。異物がのどを通り、かの女は咳き込んだが、それでもすぐに寝息を立てた。
 アントーニは、そのままシャルロットの上半身を抱きしめていた。かの女は彼の腕の中でぐったりとしていた。彼はしばらくその姿勢のまま柔らかい唇の余韻に浸っていた。やがて、彼はゆっくりとシャルロットを横たえた。いつまでもこうしていたかったが、かの女は病人だ。でも、もし、病人ではなかったら・・・。
 彼は、ヴィトールドやフリーデマンの気持ちが理解できるような気がした。もし、かの女が病人でなかったら。こんなに熱っぽい体でなかったら。自分もきっと彼らと同じことをしたはずだ。
 自分は、かの女が病気であると知りながら抱きしめずにはいられなかった。薬を飲ませるためだけではなく、かの女の柔らかい唇を味わいたかった。自分は彼ら以下の卑しい人間だ。
 彼はかの女から離れ、ポケットからハンカチを出して唇についた薬をぬぐった。濡れたタオルでもう一度丁寧に唇を拭いてから、彼はかの女のところに戻って唇を濡れたタオルでふいた。そして、もう一度洗面器にタオルを浸してかの女の額にのせた。その足で暖炉に戻り、火をかき回してから元のいすに座った。
 彼は本を開いた。フランス語で書かれていたその本のタイトルは<愛の死>だった。ロジェ=ド=ヴェルクルーズが、シャルロットとリオネル=デルカッセの手を借りて完成させた最後の作品。
 彼の目に文字が入ってこなかった。それでも、彼は無理に読もうとした。
 文学サークルの若手作家たちは、<ル=ヴァンティエーム=シエクル>をフランス語で味わうだけではなく、それをポーランド語に翻訳しようとするアントーニたちを応援していた。特に、ロジェの最後の作品である<愛の死>には難解なところが多く、原作のフランス語ではなくポーランド語で読みたがっていた。この作品は、久々に音楽家の物語だが、彼のこれまでの作品とは違い、音楽にある程度詳しくないと解釈が難しい箇所が結構あった。この作品の翻訳作業の中心人物の一人であったベルク博士もアントーニも、音楽には詳しくない。<グラフィート>でたくさんの音楽家たちの前で朗読会をするまで、<愛の死>という音楽がワーグナーのものであることも、主人公のモデルの一人がショパンであることも二人は知らなかったのだ。音楽家たちがショパンの生涯を熱く語るのを聞いた文学サークルの人間たちは、音楽家たちの作品解釈なしには、ロジェの作品を読み解くことができないと判断した。作家たちは、その朗読会以後、<愛の死>の翻訳作業を音楽家たちと共同で行うことに決めた。こうして、翻訳作業は主に<グラフィート>で行われるようになったのである。
 その<朗読会>にシャルロットが参加したことはまだ一度もない。<朗読会>が始まったのは、シャルロットがベルリンに行ってしまったあとだったからだ。しかし、この翻訳作業にシャルロットの助けが必要なのは、アントーニが一番よく知っていた。なんといっても、シャルロットはロジェの作品の共同作業者だったからだ。
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