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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第96章

第1763回

 タデウシは驚いたような顔をしてアントーニを見つめた。「あなたは、成人してからポーランド語を覚えたんですか?」
 アントーニは頷いた。「ええ。軍隊で」
 タデウシは驚きを隠さなかった。
「わたしは、志願して戦争に行き、ポーランド人として戦いました。それまでドイツ語しかできなかったのに、自分がポーランド人だと信じ、ポーランド人の誇りを持って戦いました。その戦いのさなかに、わたしはポーランド語を覚えたのです」アントーニはゆっくりと話した。「戦後、戦友の一人が読んでいた一冊の雑誌と出逢い、その編集長に、ちょっとばかり風変わりなポーランド人女性がいると紹介されたのがマウゴジャータでした。わたしはかの女にポーランド語を学び、かの女に文学を教えました。そのとき、失恋したばかりだったかの女は、自分の殻に閉じこもっていました。わたしはそんなかの女に恋をしました。自分の伴侶にするならこの女性しかいない、そう思いました」
「それで、あなたたちは結婚した」タデウシがそう言うと、アントーニは首を横に振った。
「違うんですか?」タデウシは目を丸くした。
 アントーニは小さくため息をついた。「わたしは、かの女のそばにいた。かの女がわたしの思いに気づいてくれるのを待ち続けた。ところが、そのかの女の前に一人の男性が現れ、かの女はいきなり恋に落ちた。しかし、その男性の方は、別の女性に夢中で・・・」彼はいったんそこで言葉を切った。「その男性が、クリーシャの最初の夫だった。彼は初恋の女性の心を見事に射止め、振られたマウゴジャータのほうは絶望のあまりレマン湖で死のうとした。かの女の挙動があまりにもおかしかったので、あとをついていったわたしは、かの女がレマン湖にどんどん入っていくのを見て慌てて止めた。で、わたしは、かの女に冷たい湖の中でプロポーズした」
 彼は遠い目をした。「あのとき、二人ともずぶ濡れで震えていた。かの女は覚えていないようだが・・・それは、10年前の今日、4月9日の夜のことだった」
 そう言うと、アントーニは目を丸くしていたタデウシに頭を下げた。
「今晩は、かの女とその話をして語り明かそうと思っていたんだ」アントーニが言った。「まさか、今日、かの女がほかの男を連れて帰ってくるなんて想定していなかったんでね。荷物を持ってもらった上に、雪の中、夜道にボディーガードまでしてくれた男性に、あんな態度を取って不愉快な思いをさせてしまって、すまない。大人げない態度だったと思う」
「奥方が男と一緒に帰ってきたんだ。嫉妬しない方がおかしいさ」タデウシは、気にするな、という口調で答えた。
 アントーニは、もう一度コーヒーの方に視線を落とした。よりにもよって今日、ほかの女性のことを考えてしまった自分を恥じる気持ちがわきあがってきた。数時間前に妻と愛し合ったばかりなのに、初恋の女性そっくりな女性の前で理性をなくしそうになった自分。それに比べたら、たとえ二人きりで話しながら帰ってきたとはいえ、妻のしたことなどかわいいものだ。二人の間には恋愛感情も何もないのだから。
 彼は顔を上げ、「きみと奥方のなれそめのことも聞いてもいいかな?」と言った。
 タデウシは、びっくりしたような顔をアントーニに向けた。その顔が、急に真っ赤に染まった。
「つまらない話ですよ」タデウシはそう言うと、ポケットからハンカチを出し、額の汗をふいた。
 アントーニはふふっというような音を出して笑った。「わたしの初恋の女性は、教会の聖母像だと言ったでしょう? あなたの初恋の女性は、少なくても人間だったんでしょう?」
 タデウシはますます赤くなったあと、ぽつりと言った。「わたしは、その女の子を天使だと思っていました。わたしの初恋は、あなたのと似たり寄ったりではないでしょうかね」
 そう言うと、彼は目の前のコーヒーを飲み干したあと、遠い目をして話し出した。
「わたしの両親は、ある貴族の家に仕えていた使用人だった。母は、その屋敷の一人息子の乳母をしていた。わたしが7歳の時、乳兄弟が亡くなり、失業した母は息子のわたしを連れ、ドイツの親戚を頼ってポーランドを離れることになった」タデウシは話し始めた。「その少年の葬儀のあとも、わたしは涙が止まらなかった。人生初の試練だったからね。だが、泣いているわたしの前に、青い目をしたちいさな女の子が突然現れ、わたしにハンカチを差し出した。わたしがハンカチで目をふいたとき、女の子はわたしの目の前にはいなかった。わたしは、あの子が天使だと思った。そして、わたしはその女の子に恋をしたんです。そのときは、わたしはかの女のことを何も知らなかった。だけど、その直後、かの女は有名人になった。かの女の評判は、ドイツにいたわたしの耳にも届きました。クラコヴィアクのブローニャ・・・。かの女はあらゆる意味でわたしには手の届かない女性だった」
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