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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第97章

第1777回

 シャルロットは、自分の留守中にモジェレフスキー夫妻が新しい作品の翻訳を始めていたことを知らなかった。かの女は、モジェレフスキー夫妻がガルディアン=ド=マルティーヌ(本名ロジェ=ド=ヴェルクルーズ)の最後の作品<愛の死>を翻訳しようとしていると知って、とても驚いた。彼らは、シャルロットの正体を知らずに翻訳作業を開始していた。
 モジェレフスキー夫妻は、<グラフィート>に集まる音楽家たちの話を聞いたときから、自分たちがやろうとしている仕事が、本当はとても困難なものだったと気づいていた。フランス語で書かれた作品をポーランド語に翻訳するだけなら、彼らの力量があればさほど難しいものではなかった。しかし、フランス語からポーランド語に移し替えられただけの作品を読んだ音楽家たちが、その文章は何だ!と言い出したのをきっかけに、モジェレフスキー夫妻は、この作品はフランス語にも音楽にも理解がある人間に翻訳の協力をしてもらうべきだと思い始めていた。その条件にぴったり合う人間は、一人だけ存在した。だが、ちょうどドイツに出かけていて不在だったため、彼らはシャルロットの帰りを待っていた。そんなとき、彼らは偶然にシャルロットの秘密を知ってしまった。
 ロジェのことをよく知っていて、ロジェの作品の内容も背景も熟知している人間。フランス語もポーランド語も同じくらい堪能な人間。まさか、シャルロット=ザレスカがこんなに近くにいたなんて!
 彼らの提案を聞いたシャルロットは、即座に<プロジェクト=チーム>に入るのを断った。
 しかし、ロジェの作品がポーランドで出版されるということ自体は、喜ばしいことだ。かの女の正体を決して悟られないようにする、という条件で、シャルロットはようやくロジェの最後の作品に再び目を通すことに同意した。
 翻訳班の一員に名を連ねることは拒否したが、名前を出さないならば・・・と譲歩したのは、ロジェの<愛の死>という作品には特別の思い入れがあったからだ。あの作品は、彼のほかの作品以上に広く世に知られる価値のあるものだ。それ以上に、一緒に最初の作品を書いた相手と一緒に書いた最後の作品だったからだ。シャルロットにとっても、あの作品は、ローザンヌでの生活の集大成だった。
 ロジェの遺品を何一つ持ってこなかったシャルロットは、モジェレフスキー夫妻から、フランス語で書かれた本を借りた。かの女は、家族が寝静まってからゆっくりと本を開いた。
「《人はフレデリック=ロスヴィッキーの生涯を不幸な悲しいものだったという。だが、フレデリック自身は、自分の短い生涯をふりかえったとき、必ずしも不幸だとは思っていなかったのではないだろうか・・・フレデリックの親友、ジュリアン=バダルゼフスキは彼の墓を見ながらそう思った。》」シャルロットは、出だしを読んで、『フリーデリック=ロスヴィツキとユリアン=ボンダジェフスキ』と頭の中で書き換え作業を行った。小さくため息をついた後、「この翻訳作業、考えていたよりも結構大変かも・・・」と独りごちた。
 シャルロットは一晩かけて、ロジェの作品を読み終えた。いや、その作業は<読み終えた>というものではなかった。かの女は、ロジェとの思い出をたどっていただけだ。ロジェが口述筆記させた小説。一つ一つの文を見ていると、彼がどんな調子でその文を口にしたか、その文を書いていたときの自分の心情がどうだったか思い出された。そのとき目の前にいたロジェがどんな色の服を着ていたかまで、シャルロットは細かいことをすべて覚えていた。
 外が明るくなってきたとき、シャルロットは思った。これでは、自分はモジェレフスキー夫妻の役には立てない。
 シャルロットは立ち上がり、部屋を出た。足は音楽室に向いていた。シャルロットは無意識にピアノの前に座り、音楽を奏で始めた。
 気がついたとき、そばに真っ赤な目をしたヤロスワフが立っていた。
「ワーグナーの<愛の死>だな?」ヤロスワフは声をかけた。
 シャルロットはその声を聞くと、涙が出てきた。
「ライのために弾いてくれたんだね?」ヤロスワフが言った。「あれの母親は、ワーグナーが好きだった。かの女が歌うイゾルデの歌は、本当のイゾルデみたいだった。あの子も、<トリスタンのような恋>がしたいと言っていたものだ。まだ、ほんの子どもだったのにな・・・」
 トリスタン。そうだ。自分は、ライモンドにトリスタンの役回りをさせてしまった。自分たちは同じベッドで眠ったが、彼とはついに男女の仲になることはなかった。本物の媚薬でもあれば、話は別だったのだろうが・・・。
「そうだ! もし女の子が生まれたら、イゾルデと名付けるといい」そう言うと、彼はいつものいかめしい伯爵の顔に戻り、ゆっくりと部屋から出て行った。
 その後ろ姿を見たとき、シャルロットはどきりとした。いつも鉄の面をかぶっていて、背筋をぴんと伸ばして歩く彼が、あんなに寂しそうな後ろ姿を見せるとは。シャルロットは思わずその背中にすがりついて、本当のことをすべて話してしまいたいという誘惑に駆られた。かの女は強い意志でそれを押さえたが、涙はすぐには止まらなかった。
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