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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第101章

第1847回

 部屋から出たところで、シャルロットははっと我に返った。そこに家政婦長のベック夫人が立っていたからだ。かの女は、シャルロットを見ると、心配そうな表情になった。シャルロットはさりげない様子を装ってポケットからハンカチを出して、そっと涙をぬぐった。
「・・・奥さま、もう一度サンドウィッチを作るのですか?」ベック夫人は、その動作には気づかないふりをしてちらっと台所の方に視線を向けた。
「そうね。あの人たちの食欲ったら・・・」シャルロットはそう言いながらにっこりとした。「でもね、さっき、バターを全部使ってしまったの。買いに行ってくるから、あとは頼んだわ」
「バターを全部、ですか?」家政婦長は不思議そうに訊ねた。「それでしたら、わたくしが・・・」
「大丈夫。あなたは、ここにいてくださいな。ほかに足りないものがあったら、ユーリだけでは困ってしまうでしょうから」
「はい、おじょう・・・奥さま」かの女はそう返事し、頭を下げた。
 この屋敷の人間の過半数は、シャルロットが子どもの頃からここにいる人たちだ。ユリアンスキーがシャルロットに従って出て行った後、屋敷の大多数の人たちもシャルロットに従おうとした。ユリアンスキーは、『ここに残るのも、亡き公爵さまに対する奉公で、シャルロットさまも、この家を守る人たちを必要とされている』と説得し、シャルロットについていこうとする人間を半数に抑えたのだった。この家に比べると、シャルロットが管理しているほかの家の大きさは4分の3以下であり、執事のいないこの家を切り盛りするには、有能な家政婦がとりわけ必要だったのである。<チャルトルィスキー邸>に残る使用人たちを最終的に決めたのは、シャルロットとリンデ夫人だった。レーベンシュタイン夫妻の負担にならない程度で、かつ屋敷を維持できるぎりぎりの人数が屋敷に残った。彼らはレーベンシュタイン夫妻の指揮系統下で働いているが、実際の主はシャルロットだったのだ。
 確かに、台所にはバターが残ってはいなかった。だが、シャルロットはバターを買いに行くつもりはなかった。かの女は、一刻も早くこの家から飛び出していきたかったが、子どもの頃から知っている使用人たちの前で恥ずかしい姿をさらす勇気はなかった。かの女はあくまでも優雅な女主人として、堂々とこの家から出たかった。だから、かの女はいつもの歩調を崩さなかった。いつものように門番に黙礼し、身についている優雅な仕草で門を出た。
 もはや誰の目にも映っていないことを確認した後で、シャルロットは立ち止まり、目にハンカチを当てた。もう、涙を止めることはできなかった。
 しばらく泣いた後で、シャルロットは自分が一人きりではないことに気がついた。
「・・・エデック」シャルロットはそうつぶやき、急いで涙をふいた。
 執事のユリアンスキーは、まじめな顔を崩さずに、ゆっくりと頭を振った。《わたくしは、何も見てはおりませんでしたよ》彼は全身でそう言っていた。シャルロットは信じなかったが。
「お屋敷に戻りますか?」ユリアンスキーは何事もなかったように声をかけた。
 シャルロットはふうっと息を吐いてから、こう答えた。「ええ。そうね」
 そのとき、遠くから教会の鐘の音がした。どうやら正午らしい。
「・・・教会に行きたいわ」シャルロットはぼんやりと言った。「どこか、近くの教会に行って、お祈りしたい」
 ユリアンスキーは黙って頷いた。
 二人はしばらく黙ったまま歩き続けた。その二人の耳に、手回しオルガンの音が聞こえてきた。教会の前の広場は人でごった返していた。オルガンは、人々が集まっている方から聞こえてきた。よくよく聞くと、その音楽には聞き覚えがあった。
「・・・《イスタール》のようですね」ユリアンスキーの表情が柔らかくなった。
 シャルロットは頷いた。
 人だかりの中を覗いてみると、大人の男性が3人立っているくらいの大きさのオルガンを、一人の男性が操っていた。彼は、ペダルだけの自転車のようなものをこいで、楽器に空気を送っていた。どういう仕組みで楽器の音が出るのかはよくわからなかったが、男性がしているのは空気を送る動作だけのようだったので、どうやら機械仕掛けで音楽が奏でられるものらしい。そこに集まっている若い男女は、一様にうっとりとした表情を浮かべていた。老人たちも、何かを懐かしむような表情だった。
 その場にいるほとんどの人たちは、《イスタール》がどんな曲なのか知っている。恋に落ちた作曲家志望の17歳の少年が、ひとりの少女のために作った音楽。そして、その少女の《シャルロット=チャルトルィスカ》という名前からテーマを取って作られた音楽。その少女のことを、ポーランドで育った人たちはよく知っている。《クラコヴィアクのブローニャ》。若くして演奏生命を絶たれた悲劇のヴァイオリニストの一人娘で、暗殺された公爵の養女。わずか23歳で亡くなってしまった才能ある演奏家。
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