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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第一部」
第12章

第220回

 1897年7月25日、ロベール=フランショームは、クラリスのイ長調のピアノソナタをパリで初演した。このとき以来、このソナタには<(クレール)>という愛称がついた。このコンサートの批評を書いたエルネスト=マンソンが、この演奏を評して書いた言葉が、その愛称の由来であるといわれている。
 いわく、<物事には、二つの面がある。たとえば光と陰。しかし、このピアノソナタには光しかない>・・・このフレーズが一人歩きしてしまった結果ではないか、というのが定説になっている。
 もともと、この<(クレール)>という単語は、作曲者のクラリス(語源は<光>を意味する)とかけた、マンソン流のだじゃれであった。しかし、この愛称は、曲の本質を表すのにぴったりの言葉だったのである。
 そして、この曲を<(クレール)>と呼んだもう一つの理由は、ロベールがアンコールで弾いた暗い曲との対比の意味もあった。
 ロベールは、あのときのクラリスの<別れの手紙>を演奏したのである。この曲が公開の場で演奏されたのも、これが初めてのことであった。その暗い曲にも、もともとクラリスはタイトルをつけなかった。この曲を最初に「悲しき歌」と呼んだのも、エルネスト=マンソンだといわれている。このときのコンサート評で、アンコール曲をその名前で呼んだのが、曲の愛称の由来である、と。
 しかし、後に、エマニュエル=サンフルーリィは、自分の<回想録>の中で、クラリス自身から聞いた話として、この曲を最初に「悲しき歌」と呼んだのは、アドルフ=ド=バーン(作曲家エリザベート=ド=バーンの夫)で、それは1896年1月末のことだった、と書いている。
 さて、このコンサートの後で、出版社が、「悲しき歌」を出版したいと言ってきた。クラリスは、すでに権利はロベールに譲ったといい、ロベールの方はクラリスの作品だから自分に出版権はない、と断わった。こうして、この作品は、誰の手にも渡らなかった。
 ロベールは、この後、アンコール曲として必ずこの曲を弾くようになった。ただ、それを誰かに演奏させることを、唯一の例外を除いては、決して許さなかったのである。
 さて、このコンサートを聴いていた人の一人に、ミュラーユリュードのサント=ヴェロニック校の校長がいた。この学校は、エマニュエルやアレクサンドル=ド=ルージュヴィル=ド=サックスが勤務していた学校である。校長は、コンサート終了後、ロベールに、自分の学校のピアノ教師の職を提示してきたのである。
 ロベールは、その話を聞いて驚いた。その話は、決して割がいい仕事ではなかった。彼には、ロンドンの音楽院からも誘いが来ていたくらいである。彼は、クラリスと結婚するために、一時はその職につくことを考えたこともあった。しかし、彼は、その話を断わった。彼には、そのほかにも地方の音楽院から教授職を何度か提示されていたが、すべて断り、コンサートピアニストを続けていたのである。そんな彼にとって、サント=ヴェロニック校は、さほど魅力がある職場ではなかった。
 しかし、彼はその仕事を請けた。なぜならば、ミュラーユリュードは、<コリーヌ=コンソナンス>の近くだったからである。彼は、クラリスの近くに住むという誘惑には勝てなかった。たとえ、自分の手が届かなくてもいい。愛するひとの近くにいたかったのである。
 1897年8月の終わりに近いある日、ロベール=フランショームは、ミュラーユリュードに引っ越してきた。そして、彼は、引っ越しの挨拶をするために、コリーヌ=コンソナンスを訪れた。
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