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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第一部」
第12章

第225回

 ロベール=フランショームは、クラリスが泣きながら「悲しき歌」を演奏をしているのを聞いた。
 彼は、これまでに、何度かこの曲を演奏してきた。しかし、今聞くこの曲は、彼が知っている曲ではなかった。聞きながら、自分が恥ずかしくてたまらなくなってきた。自分には、こんな深い悲しみを表現できない。
 彼の脳裏をよぎったのは、1896年の復活祭の休暇のことであった。
 彼は、かの女にプロポーズするためにフォンテーヌブローへ行った。かの女は、《提出期限が過ぎた答案》を突き返した。そのとき、ドアの向こうで泣いていたあの泣き声を、彼は思い出していた。あんなに悲しそうなすすり泣きを聞いたのは、あのときが初めてであった。しかし、あのときの彼には何もできなかった。彼は、黙って立ち去った。そして、その瞬間を、彼はずっと呪い続けていた。恐らく、生きている限り、彼はあのときの自分を許すことはできないだろうと思っている。
 そのときの教訓から、彼は自分にこう言い聞かせるようになった。
<どうせ後悔するのなら、やらずに後悔するのではなく、やって後悔すべきだ>と。
 彼は、あのとき、たとえドアが壊れてしまっても・・・いや、ドアにぶつかってどんなひどい怪我をしたとしても、ドアを破って中に入り、クラリスを慰めるべきだったと後悔していた。たとえ、クラリスがそれを望んでいなかったとしても、そうすべきだった。それでかの女に拒否されるのなら、同じ拒絶でもあきらめがつく。
 ロベールは、ノックもしないで部屋に入っていた。たとえノックしたとしても、今のクラリスにはわからなかっただろう。かの女は、まったく無表情で目を閉じて演奏していた。しかし、その顔はまだ涙で濡れていた。
「・・・どうしたの?」ロベールは英語で声をかけた。
 クラリスは目を開けた。疲れ切ったような表情でロベールを見つめ、ピアノから手を離した。
「あなたの夢を見たの」クラリスがフランス語で言った。
「わたしの?」ロベールは不思議そうに言った。
「ええ。あなたは、『わたしの夢は、幸せになることです。そして、誰かを幸せにすることです。たった一つでいいから、誰かを幸せにする曲を書かなくては、クラリス』と言ったのよ」クラリスが言った。かの女は、ちいさくため息をつくと、こう続けた。「自分の作品で、たった一つでも、誰かを幸せにするような・・・誰かの心を動かすだけの曲が存在するのかしら? 自分は、これまでの人生を、無駄に過ごしてきたのではないかしら・・・? わたし、みじめなの」
「どうして? あなたは、精一杯生きてきたじゃないの?」ロベールが言った。
 クラリスは首を横に振った。「そうね。精一杯生きてきたわ。でも、それだけのことだわ。わたしは、幸せじゃない。誰かを幸せにしていない」
 ロベールは、それを聞くと涙が出そうになった。
「わたしね、自分の曲を整理しようと思うの。昔、メランベルジェが言ったわ。よく考えて曲を書きなさい、って。わたしは、自分の感情が赴くままに曲を書いた。それだけじゃだめなんだ、って気がついたの。本当に残したい作品は、そう多くはないはず」
「クラリス、まさか、作品を処分するつもりなの?」ロベールは驚いた。
「ええ、そのつもりよ」クラリスは答えた。
 ロベールは思わず一歩前進した。「だめだ、クラリス! そんなことしちゃだめだ!」
 クラリスは肩をすくめた。
「少なくても、ピアノ曲だけは処分しない、って約束して」ロベールが言った。「ここに一人、きみのファンがいる。きみのピアノ曲をずっと追い続けていた---それをずっと愛していた一人の男のために、それを残して欲しい。お願いだ」
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