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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第一部」
第12章

第226回

 クラリスは黙ったまま涙ぐんでいた。
「わたしは、ずいぶん昔からあなたの曲を知っていた。あなたの<習作(エチュード)>と名付けられた作品集を初めて手に取ったときから、ずっと・・・」ロベールは英語で話し続けていた。「わたしは、あなたに会う前から、あなたを知っていたんです。あなたの歩んできた歴史と、あなたの精神を、わたしはずっと知っていたんです。わたしは、あなたの魂とずっと歩んできたのです・・・」
 クラリスはそれでも何も言わなかった。かの女は、下を向いたまま自分の手を見つめていた。
 そのとき、エマニュエル=サンフルーリィが帰ってきた。彼は、部屋のドアが開いているのを不審に思って中を覗いた。
 クラリスはピアノに向かって座っていた。しかし、かの女はピアノを弾かずに下を向いていた。泣いているように見える。そして、そのかたわらにロベール=フランショームが立っていた。彼は、クラリスに英語で話しかけていた。
『あなたの歩んできた歴史・・・』のあたりから、エマニュエルも話を聞いた。彼は、とっさにドアの向こうに戻った。二人は、彼には気づかなかった。
「あなたは、『精一杯生きてきたわ。でも、それだけのことだわ。わたしは、幸せじゃない。誰かを幸せにしていない』と言いましたよね。わたしはそうは思いません」ロベールは続けた。「あなたは、誰かを幸せにしました。あなたは、自分が幸せじゃないと思っているけど、あなたは不幸じゃない」
 クラリスは首を横に振った。
「『自分の作品で、たった一つでも、誰かを幸せにするような・・・誰かの心を動かすだけの曲が存在するのかしら? 自分は、これまでの人生を、無駄に過ごしてきたのではないかしら・・・?』あなたは、さっきそう言いましたよね?」ロベールは優しい口調で言った。「わたしの答えは、こうです。『あなたは、誰かを幸せにしました。あなたの人生は、決して無駄じゃありません』」
 クラリスは顔を上げた。
「わたしは、あなたに出会うことができて、とても幸せです」ロベールはフランス語で言った。そして、彼はクラリスの手を取った。クラリスは手を引っ込めなかった。
 クラリスは、小さな声で言った。「わかりました、約束しましょう・・・少なくても・・・」
 クラリスの言葉は途中で止まった。かの女は、ドアのところに立っているエマニュエルに気づいたのである。
 ロベールは、クラリスの言葉がとぎれたので、後ろを振り返った。そして、驚いてクラリスの手を離した。
 エマニュエルは青ざめて立っていた。クラリスは、彼の様子から、彼が自分とロベールの会話を誤解していることに気づいた。彼の第一声が、クラリスの予感を裏付けた。
「クラリス、きみは、いったい誰を幸せにしたというの?」彼は、怒りを無理に抑えたような低い声でそう訊ねた。「どのような手段で?」
 クラリスは、涙に濡れた顔をまっすぐにエマニュエルに向けた。しかし、何も言わなかった。
 ロベールは、とっさに二人の間に入った。エマニュエルがクラリスにつかみかかろうとしているように見えたからである。
「二人で、いったい何の約束をしたの?」エマニュエルはばかにしたように訊ねた。「わたしだけ、何も知らないと言うわけか?」
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