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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第二部」
第19章

第355回

 初めは渋っていたステファンスキーだったが、結局ピアノトリオ結成に賛成した。そういう教育法があることを知らせることで、才能ある子どもたちを発掘できるかも知れない・・・というクルピンスキーの言い分を認めたのである。子どもたちの可能性を探るには、早いほうがいい。しかし、このシステムは、まださほど有名なわけでもない。才能ある子どもたちがワルシャワにしか存在しないわけはない。ほかの地域に知られることで、もっともっと才能ある子どもたちを発掘できるかも知れない・・・。
 計画ができた後は、その人選にうつった。ヴァイオリニストをシャルロットに決めることには、誰からも反対は出なかった。ただ、クルピンスキーやヴィエジェイスキーが主張したように、残り2名は、少なくても当分の間はシャルロットをカバーできなくては困る・・・という観点から人選しなければならない、という点で一致した。
 ピアニストは、ステファンスキーが推薦したフリーデリック=ラージヴィルという12歳の少年が満場一致で決まった。この少年は、ステファンスキー=システムの<現在のところ最高の傑作>と言える人物だった。彼は、ピアニストとしての将来性があり、その一方で優れた伴奏者であった。さらに、クルピンスキーが思わず感心しそうになるくらい作曲の才能があった。ただ、クルピンスキーは面と向かって彼に才能を認める発言をしたことはなかったのだが。そして、ヴィエジェイスキーとリシュジンスキーも、決して自分たちの後継者とはならないだろうが、一定の才能があることを認めていたのである。
 チェリストの選考は難航した。第二のフリーデリック的な少年を選ぶべきか、チェリストとして才能に恵まれた少年を選ぶかで、教授たちの意見が分かれてしまったのである。候補は3人いた。その3人のうち、リシュジンスキーとヴィエジェイスキーが推薦したアダム=ポトツキーという7歳の少年が最終的に選ばれた。彼が選ばれたのは、そのチェロの腕前によってであった。小さな体をした少年だったが、弦楽器を弾くのが得意であった。最終的にヴァイオリニストになるかチェリストになるか、現時点ではわからなかったが、クルピンスキーは《この少年は、このままいけば、ポーランド一のチェリストになるだろう》と予言したと言われていた。その噂は本当か嘘かはわからなかったが、少なくても、彼のデビューリサイタルのプログラムにはそう書かれていたのである。彼は、1年前から、チェリストとしてステージに上がっており、その才能は周知のものだった。
 ピアノトリオの名前は<クラコヴィアク>に決定していた。ヤン=クルピンスキーの命名である。ワルシャワの音楽家たちが、どうしてクラークフにちなんだ名前をつけなければならないのか?と訊ねた人に、クルピンスキーは冗談半分でこう答えている。
「われわれ4人(というのは、指導者たちのことである)のうち、3人までがクラークフの出身だからね」
 確かに、ヴィエジェイスキー以外は、本人、または両親のどちらかがクラークフ出身だった。ちなみに、メンバーは、全員クラークフとは何の関係もなかった。
 このトリオは、不幸から始まっている。<クラコヴィアク>は、なぜかチェリストに恵まれなかった。初代のチェリスト、アダム=ポトツキーは、この決定直後、心臓発作で急死してしまったのである。そして、同じ7歳であったスタニスワフ=レシチンスキーという少年がチェリストに決まったのである。
(後の話だが、このトリオは、やはりチェリストが原因で解散することになるのである・・・。)
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