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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第二部」
第25章

第458回

 ル=アーヴルからミュラーユリュードまでは汽車の旅をする予定だった。
 シャルロットはプラットホームにいた。その頃には、かの女は落ち着きを取り戻していた。汽車が来るまではまだ二時間以上あると聞かされていたが、かの女はもうどこへも出かけたくなかった。かの女は、駅にいることにした。
 かの女は、荷物をたくさん持っていた。自分の体が入ってしまうくらいの大きさのスーツケースが一つ、それにチェロとヴァイオリンのケースを一つずつ持っていた。その姿をベンチに座って見ていた初老の男性が、好奇心からかかの女に近づき、何か演奏して欲しいと頼んだのである。彼は明らかに退屈していたのであった。
 シャルロットは、迷わずにヴァイオリンケースのふたを開けた。
 そのとき、駅員がみなに声をかけて通り過ぎた。
「パリ行きは、あと30分でまいります!」
 シャルロットは、演奏時間が20分くらいのヴァイオリンソロの作品を何か思い出そうとした。思い浮かんだのは、クルピンスキーの小品だけだったので、かの女はそれを演奏し始めた。かの女は、うっかりケースのふたを閉めるのを忘れていた。
 駅にいた人たちは、シャルロットの演奏が始まると、おしゃべりしていたことを忘れ、演奏に夢中になっていった。誰一人席を立つものさえいなかった。その場は、サロンと言うよりはコンサートホールと化していた。
 その状況は、一見、芸人がお金目当てに演奏しているかのようだった。かの女は、ヴァイオリンケースのふたを開けていた。そこにお金を入れて欲しいかのように。かの女は車椅子に乗っていた。あたかも同情を引こうとしているかのように。・・・しかし、かの女は、服装がきちんとしていた。誰が見ても上流階級のお嬢さまで、ただのひまつぶしに演奏しているように見えた。いや、超一流のヴァイオリニストがホールのかわりにこの場を選んで演奏しているのが、誰の目にも明らかだった。だから、この場に居合わせた人は、かの女を芸人ではなく、芸術家として扱おうとしていたのである。彼らは、開いているヴァイオリンケースにお金を入れようなどとは考えなかった。
 その<客たち>の中に、3人の音楽評論家がいた。
 アンリ=シャルマンとエルネスト=マンソンは40代で、ともにコンセルヴァトワールで作曲を学んだことがある人たちだった。もう一人はまだ20代で、ピアニスト出身のエミール=ショーソンだった。このちいさなヴァイオリニストを見た彼らはそれぞれ、どこかでかの女を見たことがあるかどうか思い出そうとしていた。しかし、誰もこのヴァイオリニストに見覚えはなかった。ただ、エルネスト=マンソンだけは、かの女にどこかで会っているはずだ・・・と思い続け、何としてでもかの女と話をしようと思っていた。
 この平和な音楽会を聞いていた若い男がいた。彼は、一見貧しそうに見えた。真面目そうなその顔は、疲れのためにこわばっていた。彼は、このちいさなヴァイオリニストの気分を害した。かの女に近づき、ヴァイオリンケースの中に5フラン入れたのである。
 シャルロットは演奏を中断した。かの女は怒っていた。
「5フランでは不満ですか?」青年が言った。「あなたの演奏に対して、5フランはあまりにも安すぎることはよくわかっています。・・・でも、ぼくは、今切符を買ったばかりで、5フラン1サンティームしか持っていません。その1サンティームも出します。どうか許して下さい」
 シャルロットはきっぱりと言った。「わたしは、乞食ではありません。お金はいりません」
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