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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第二部」
第44章

第785回

「最初のコンチェルトができあがった直後から、彼は、本当に寝たきりの生活になってしまったの」シャルロットが続けた。「彼は、窓際にベッドを移してもらい、そこで外を眺めながら歌を口ずさんでいたの」
 そのころ、夕方5時半になると、毎日のようにブルームの部屋の窓の下を通っていく若い女性がいた。彼は、かの女が通るのを眺めていた。もう一年以上も、かの女は、毎日のように同じ時間にそこを通った。彼が見ていることには恐らく気づいていなかっただろう。彼は、かの女を<そよかぜ>と呼んでいた。彼は、かの女に気づいてもらおうとして口ずさんだが、かの女は彼には気づかなかった。やがて、かの女は、彼の窓の下を通らなくなった。しかし、彼には、<そよかぜ>を探しに行くことはできなかった・・・。
 ところで、当時ブルームは、一人の女性と暮らしていた。幼い頃に両親を亡くし、いとこであるブルームと兄妹のように育ったかの女の名前は、グレタ=レヴィンといった。彼は、年下のいとこのことを妹のように思っていたが、かの女の方は彼を愛していた。かの女は、彼のそばにいて、彼がかなわぬ初恋に苦しんでいるのを見ていた。というのは、彼が<そよかぜ>に恋をしていることも、その<そよかぜ>がすでに結婚していることもかの女は知っていたのである。やがて、<そよかぜ>は、またブルーム家の窓の下を通るようになったが、今度は一人ではなかった。かの女は、若い男性と一緒に、沈んだ表情をして窓の下を通るようになったのである。
『あのご夫婦、お子さんをさらわれてしまったんですって』グレタは、町のうわさ話を彼に聞かせた。彼がかの女にあこがれていることに気づかないふりをして。『彼らは、ローザンヌ大学の学生でもあるの。学生結婚だったそうよ。でも、いつも悲しそうなのは、さらわれたお子さんが見つからないからなんですって・・・』。ブルームは、その話を聞くと、二人に同情した。彼は、<そよかぜ>の夫である若い男性にさえ同情してしまっていたのだった。その日から、彼らは自分の友人になっていた。一度も話をしたことがない気の毒な友人のために、彼は弦楽四重奏曲を書き始めた。その弦楽四重奏曲が4曲目に入った頃、彼は<そよかぜ>が死んだという知らせを聞いた。1902年のクリスマス前のできごとだった・・・。彼は、作品を書く気力を失い、本当に寝たきりの生活になった。
 1905年、彼が30歳になったある日、彼は<そよかぜ>が出てくる夢を見た。かの女は、天使たちに囲まれて、美しい歌を歌っていた。そのメロディーは、彼がこれまで聞いたどのメロディーよりも美しいものだった。
In paradisum deducant angeli・・・
 ブルームは、このメロディーを元にしてヴァイオリン=コンチェルトを書き始めた。彼には、この曲を最後まで書き上げる自信はなかった。医者に宣告された10年目がきていた。そして、彼は自分の死を確信していたのである。
 自分の死を前にして、彼にはもうひとつ確信したことがあった。それは、自分がグレタを愛しているということだった。彼は、天使たちの歌をグレタに伝えるため、どうしてもコンチェルトを完成させなければならないと心に誓っていた。かの女のため、曲が完成するまで生き続けようとし、弱った体で作曲を続けた。
 1908年の夏の初めに、彼はこの世を去った。そのとき、コンチェルトは最後の小節だけを残してできあがっていた。彼は、わざとその小節を書かなかった。
 彼の死後、1冊のノートが枕元から出てきた。そのノートには、彼がグレタに対してずっと抱き続けていた愛が書き記されていた。そして、その中にこんな一節があったといわれる。
コンチェルトの仕上げは、きみがしてくれ。最後の和音は、きみにまかせるよ、グレタ。この曲は、きみがいなかったらできあがらなかったろう。象徴的な意味だけではないという証拠として、ぼくは、最後の小節をブランクにしておいた。完成させるのは、きみの仕事だよ。コンチェルトは、ぼくたちの愛の結晶なんだ。
 ブルームは、最期にこう言ったと伝えられている。『愛している、グレタ。きみを悲しませたくなかったから、言わないで死ぬつもりだったんだけど・・・ごめんね』
 グレタ=レヴィンは、25年間彼のそばにいて、その言葉を聞いたのはこれが初めてのことだった。かの女は、そのときになって初めて、彼がそれを口に出せずに苦しんでいたことを知った。かの女もまた、25年もの間、彼だけを愛していたのだった・・・。
「第二番のコンチェルトは、天使たちが歌っていた<イン=パラディスム>のメロディーにちなんで<パラダイス>と呼ばれているの」シャルロットが言った。「本当は、彼の心は<そよかぜ>ではなく、いとこのグレタに向けられていたのにね・・・」
 そして、かの女は、その話をこう締めくくった。「ブルームはね、自分が死ぬと知っていたの。彼は、いとこのグレタを愛していたのに、かの女を愛しているとは言えなかった、25年間も。もし、それをかの女に打ち明けてしまったら、かの女が自分の死後悲しむと思って、ずっと心の中にその思いをしまっていたのよ。そして、グレタも、彼に愛しているという言葉を言うことができなかった。彼の残したノートを見てすべてを知ったかの女は、コンチェルトの最後の小節に、同じ音を書き込んだのよ。正確に言えば、オクターヴ違いの、同じ音をね。みんな、ドの音だけ・・・。『わたしたちは、たとえ死んでも、一つに結ばれているのよ』・・・それが、グレタのブルームに対する返事だった・・・」
 そう言うと、シャルロットはすすり泣いた。
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