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年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第二部」
第45章

第798回

 その晩のリサイタルは、前半がテノール歌手クレマン=バレの演奏、後半がシャルロットのピアノ演奏ということになっていた。
 クレマン=バレと伴奏ピアニスト・セバスティアン=コティの二人は、エマニュエル=サンフルーリィのパリ時代の知り合いだった。二人は、エマニュエルの紹介でクラリスと会ったことがあるが、あまりかの女のことはよく知らなかった。
 クラリス=ド=ヴェルモンは、全部で52曲歌曲を残している。それは、かの女が書いた歌曲全部である。かの女は、亡くなるまでにピアノ曲以外のほとんどの作品を破棄した。歌曲集は、たまたま破棄処分を免れたものである。それは、かの女自身が歌曲にあまり重要性を見いだしていなかったからでもある。逆に言えば、処分するのを忘れてしまったものがほとんどだった。もし、その存在を覚えていたら、かの女が残したのは10曲未満になっていたはずだ---というのが、夫エマニュエルの感想である。
 かの女の死後、その歌曲集をすすんで歌ったのがクレマン=バレだった。クラリス=ド=ヴェルモンに歌曲集があるというのを人々が覚えていられるのも、彼らが貢献したためであるといえたのである。そのためかどうか、エマニュエルは時々「5日のリサイタル」に彼らを招待した。彼らも、招待されるたびにオート=サン=ミシェルの地を訪れた。
 さて、ほとんど常連となっているバレは、いつものように優雅な身振りでステージに登場した。彼は、ポケットに差していた一輪の赤いバラを取り、ほとんど無造作に客席に投げた。
 その花を受け取ったのは、最前列にいたコルネリウス=ド=ヴェルクルーズだった。彼は立ち上がり、ステージに向かって一礼した。会場から拍手が起こった。
 セバスティアン=コティは、最初の曲の前奏を弾き始めた。バレは、最初に声を出してからずっと観客を魅了した。彼の声はよく通る、のびやかな、そしてはりのあるものだった。しかし、彼の一番の特徴は、発音がきれいなことだった。彼が歌うと、それは声楽曲ではなく詩の朗読のようだった。彼の唇からは、マラルメ、ヴェルレーヌ、ゲーテ、ハイネの詩が語られ、音節が紡ぎ出される。音楽は、まるで付け足しのようでさえあった。ただし、歌を支えているピアノ伴奏だけは別で、それが詩の世界をみごとに表現していた。
 コルネリウスは、彼が選んだ最後の曲を聞いたとき、思わず青ざめた。

乳母たちが悲しく歌を歌って聞かせていた頃から
 わたしはすでにおまえを愛していた
 そしておまえの左の小指に
 わたしは銀の指輪を与えた


 それは、ポーランドの詩人、ステファン=ヴィトヴィツキーの詩だった。コルネリウスは、ポーランド人の友人からこの詩を教えてもらって以来、この詩の存在を忘れたことはなかった。このちいさな許嫁は、やがて、男を裏切って別の男と結婚してしまうのだ。
 今フランス語で聞くこの歌には、クラリス自身のつらい思い出も含まれ、よりいっそう深刻さ---暗くのしかかってくる運命のようなもの---が感じられるのだった。伴奏の左手の音型は、ショパンの葬送行進曲のそれと同じだった。クラリスは、この詩から、裏切られた男が、思い出とともに自分を葬ろうとしている様子を思い浮かべたのだろう。

心から愛したのも虚しく
 指輪を与えたことも今は虚しい


 コルネリウスの心は沈んだ。彼は、その暗いメロディ、歌詞をどうしても心の中から取り去ることができなかった。
 その歌が終わると、ステージに幕が下りた。彼はぼうっとしていたので、幕が下りたことも、休憩時間になっていたことにも気づかなかった。
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