FC2ブログ

年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第54章

第973回

 この混乱の中で、一人だけ冷静な人物がいた。フロランス=クールゾンである。
 かの女は、しばらく前からこの光景を建物の中から眺めていた。いや、視線は遠くのステージの上にあったが、実のところかの女の目には何も映ってはいなかった。しばらく前から、かの女は広い世の中にたった一人きりでいるような感覚を味わっていた。
 やがて、かの女は窓際から離れた。まっすぐ机に向かい、紙とペンを引き出しから取り出して、机の上にあったインクにペンを浸した。まず、封筒にこう書いた。
この手紙を<きづたの家>のシャルロット=ド=サン=メラン嬢に渡して下さるようお願いします。
「・・・シュリー、ごめんなさい。あなたには、ちゃんと訳を話すつもりだったのに、どうやらそうできなくなったようね・・・」
 そうつぶやくと、フロランスは手紙を書き始めた。

親愛なシュリー
 この手紙があなたに届く頃には、わたしはジュネーヴに向かっていることでしょう。
 わたしは、あなたにだけは、こんな手紙ではなく、直接事情を説明していくつもりでした。でも、どうやら、その時間は残されていないようです。
 わたしは、この決心をするのに、ずいぶん悩みました。でも、今はもう迷いはありません。わたしがジュネーヴに行くのは、音楽の勉強を続けるためではありません。音楽と別れるためなのです。というのは、わたしがこれからしようとしていることは、音楽とは関係のないことだからです。わたしは、その地の看護学校に進学することにしました。
 わたしは、今日、ショパンの<24のプレリュード>を演奏しました。パトリックが好きだったこの曲集は、偶然かも知れませんが、わたしのデビュー曲でもありました。ご存じの通り、この曲集は、3つのDの音で終わります。Dというのは、わたしの呼び名でもあるドリーのDだし、運命(Destin)のDでもあります。きっと、これも運命だったのでしょう。わたしはこの音を心にも刻みつけ、ピアノから離れることにしました。二度とピアノを弾かないつもりですし、必要なら、過去をすべて捨てます。
 わたしは、ショップと同じ道を歩くつもりです。かの女はミュラーユリュードを去る前に、こう言いました。
『音楽は、たくさんの人に安らぎを与えてくれるものです。それは、沈んだ心を明るくし、心に灯をともすことができます。でも、音楽は、死にかけた人の心の安らぎにはなっても、その人をなおすことはできません・・・』今では、わたしもそう思います。そして、わたしもかの女と同じ決心をしました。フランスを離れることにしたのは、自分の過去を知っている可能性がある人々から離れ、全くあたらしい道を探すのが目的です。
 どうか、突然去ってしまうことを許して下さい。わたしのために祈っていて下さい。わたしも、あなたのために祈っています。
フロランス=クールゾン


追伸:コルネリウス=ド=ヴェルクルーズと二人で幸せを築き上げて下さい。わたしは、あなたたちには幸せになってもらいたいのです。F.C


 フロランスはペンを置き、インクを渇かしてからきれいに畳んで封筒に入れた。
 かの女は机の上のものを引き出しに戻したあと、何もない机にその封筒を置いた。
「・・・そろそろ、時間だわ」フロランスはそうつぶやくと、手荷物を持ち、部屋を出た。
 外は土砂降りの雨だった。
 かの女が出て行ったことに気づいた人は誰もいなかった。
関連記事
 関連カテゴリ一覧 ▼ 
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第一部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第二部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第三部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記 SIDE-B
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記 外伝
総もくじ 3kaku_s_L.png 更新
総もくじ 3kaku_s_L.png 日記
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第一部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第二部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第三部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記 SIDE-B
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記 外伝
もくじ  3kaku_s_L.png データベース
もくじ  3kaku_s_L.png 設定
総もくじ 3kaku_s_L.png 更新
もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
総もくじ 3kaku_s_L.png 日記
  ↑記事冒頭へ  
*Edit
  ↑記事冒頭へ