FC2ブログ

年代記 ~ブログ小説~ 

「年代記  第三部」
第55章

第975回

 演奏が終わると、サヴェルネ夫人はみなにお茶を出すためにその場を離れた。
 サヴェルネは何も言わずに、いつもの位置に置かれた新聞に手を出した。それを見て、ノルベールはシャルロットの方を見た。
「あさってのコンサートは、予定通り行われるのかな?」ノルベールが単刀直入に訊ねた。
「ええ」シャルロットが言った。「車椅子ではなく、松葉杖でステージに出るつもりよ。左足でペダルを使うことができないから、慎重に演奏するわ」
「ペダルを使うのに不自由なのに、どうしてキャンセルしないの?」
「グルノーブルには借りがあるわ」シャルロットが言った。「恩義といってもいいかしら。第三次予選で大きなミスをしたわたしを、予選通過させてくれた恩が。だから、どうしても断わりたくなかったの」
「・・・そういえば、ジョイントコンサートの相手を見かけたよ」
 シャルロットは目を丸くした。「マリアーン=ブラッソンは、もうグルノーブルに来ているの?」
「ああ。彼に会ったのは、もう一週間くらい前かな。元気そうだったよ」ノルベールが言った。「コンサートではブラームスを弾かないんだって」
「あら、そうなの? それで、何を弾くか聞いた?」
「リストのロ短調ソナタと、シューベルトの変ホ長調の即興曲だって」
「まあ。でも、彼らしいといえば、彼らしいわね」
「それで、きみは何を弾くの?」
「別に張り合うつもりじゃないんだけど、ショパンのロ短調ソナタと、ヤン=クルピンスキーの変ホ長調の即興曲<いなかの風景>を・・・」
 それを聞くとノルベールは笑い出した。「そりゃ、張り合っているように見えるって!」
「そうかしら・・・?」シャルロットは暗い顔をした。「やっぱり、変ロ短調のソナタの方がよかったかしら?」
 ノルベールは、そういう問題ではないだろう? と言いたげにかの女を見た。
「プログラムの案をあらかじめ知らせてくれれば、もう少し選曲を考えたのに」シャルロットはつぶやいた。
 ノルベールは真面目な顔で訊ねた。「それで、リハーサルは、いつ?」
「明日の晩、当日と同じ時間に。でも、明日の午前中からオーケストラとの顔合わせがあるわ。リハーサルの準備ね。練習時間の配分は、まだ聞いていないけど・・・」シャルロットはまだ落ち込んだ顔をしていた。「わたし、彼にはまだ正式に挨拶していないけど、わたしに会ったこと、覚えているかしら?」
「さあ・・・どうかな?」ノルベールはそうは言ったが、かの女に一度でも会えば、きっと忘れてはいないだろうと思った。
「忘れているといいんだけど」シャルロットはそう言うと、台所の方をちらっと見た。
 シャルロットの視線がノルベールの方に戻った。彼は、サヴェルネ教授がそこにいるのを忘れて、いきなり学校の話題に触れた。
「・・・ところで、エーグルフォール教授の話だと、論文に取りかかったそうだね」
 サヴェルネの肩がぴくりと動いた。シャルロットはサヴェルネの手が動いたのに気づいたが、ノルベールは全く気づかずに続けた。
「教授の専門はヴィクトール=ユゴーだけど、きみもユゴーをテーマにしたの?」
 シャルロットはちょっとためらってから答えた。「・・・いいえ。ブールドンよ」
 かの女は、ノルベールがその作家を知らないことを祈った。この話題をこれ以上進めたくない。特に、サヴェルネの前で大学の話をしたくなかった。せっかく、彼の機嫌が戻ったばかりだというのに。
 ノルベールは驚いてシャルロットを見つめた。シャルロットは、その表情を見ると、自分の希望がはかない夢だったと悟った。
「ブールドン? カミーユ=ブールドンのことだよね?」ノルベールはそう訊ねた。「あの<あらしの前の静けさ>の?」
関連記事
 関連カテゴリ一覧 ▼ 
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第一部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第二部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第三部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記 SIDE-B
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記 外伝
総もくじ 3kaku_s_L.png 更新
総もくじ 3kaku_s_L.png 日記
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第一部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第二部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記  第三部
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記 SIDE-B
総もくじ 3kaku_s_L.png 年代記 外伝
もくじ  3kaku_s_L.png データベース
もくじ  3kaku_s_L.png 設定
総もくじ 3kaku_s_L.png 更新
もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
総もくじ 3kaku_s_L.png 日記
  ↑記事冒頭へ  
*Edit
  ↑記事冒頭へ